今週の書物/
「ハイゼンベルクの核開発」
政池明著
「窮理」第22号(窮理舎、2022年10月1日刊)所収
いま思うと貴重なインタビューだった。取材に応じてくれた人は、渡辺慧さん。戦前に欧州へ留学、戦後は米国ハワイ大学教授などを務めた国際派の理論物理学者だ。1993年に83歳で死去した。私は渡辺さんが77歳のとき、都内の自宅を訪ね、科学者と軍事研究のかかわりについて話を聞いた。記事は、朝日新聞科学面の連載「『ハイテクと平和』を語る」に収められている。この回の見出しは「核の原点」だった(1988年1月22日付夕刊)。
渡辺さんがすごいのは1930年代後半、第2次世界大戦直前のドイツ・ライプチヒ大学で理論物理学者ウェルナー・ハイゼンベルクの教えを受けたことだ。ハイゼンベルクは1920年代半ば、現代物理学の主柱である量子力学を建設した一人である。1930年代はその量子力学を使って、物理学者たちが原子核という未知の世界をのぞき見た時期に当たる。この探究は軍事研究の関心事ともなった。渡辺さんはまさに「核の原点」にいたのである。
その記事は、1939年の思い出から始まる。この年は、9月に第2次大戦の開戦を告げるドイツのポーランド侵攻があった。渡辺さんは日本への帰国の手続きでライプチヒからベルリンへ列車に乗ったとき、車内で偶然にもハイゼンベルクに出会った。恩師は苦悩の表情を浮かべながら、「国防省に呼ばれて行くところだ」と打ち明けたという。「はっきり言わなかったが、たぶん、原爆研究を求められていたんだと思います」
今日の史料研究によれば、大戦中はドイツも原子核エネルギーの軍事利用をめざしており、ハイゼンベルクも原子炉づくりの研究にかかわった、とされる。問題は、その本気度と進捗度だ。恩師の本心は「本気でやるのは、ゴメン」だった、と渡辺さんはみる。
渡辺さんによれば、ハイゼンベルクはナチスを嫌っていた。「『ハイル ヒトラー』と言う時でも、そのしぐさで、いやいやながら、というのがわかった」「ナチスの嫌うアインシュタインの相対論も平気で講義していた」と証言する。原子核エネルギーを兵器に用いることに対しても、「そんなことをしたら、世界は大変なことになる」と危機感を口にしていたという。「だから、原爆づくりそのものは“さぼり”、抵抗していたんだと思います」
このインタビューは全体としてみれば、「科学者が政治権力に利用された時、すでに科学者ではなく、政府の雇われ人になってしまう」という渡辺さんの警告をまとめた記事である。と同時に、冒頭部で素描されたハイゼンベルクの人物像も読みどころだ。核兵器開発を「“さぼり”、抵抗していた」という渡辺さんの見方には恩師に対する贔屓目があるだろうが、それを差し引いてもハイゼンベルクの心中に葛藤があったことはうかがえる。
で、今週の書物は「ハイゼンベルクの核開発」(政池明著、「窮理」第22号=窮理舎、2022年10月1日刊=所収)という論考。著者は1934年生まれ、京都大学教授などを務めた素粒子物理学者。一方で、第2次大戦中の核兵器開発と科学者とのかかわりに関心を寄せてきた。著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(京都大学学術出版会、2018年刊)では、京都帝国大学の物理学究たちが核兵器研究にどこまで関与したかに迫っている(*)。
本題に入る前に掲載誌「窮理」についても紹介しておこう。巻末「本誌『窮理』について」欄には「物理系の科学者が中心になって書いた随筆や評論、歴史譚などを集めた、読み物を主とした雑誌」とある。「科学の視点」は忘れないが、幅広く「社会や文明、自然、芸術、人生、思想、哲学など」を語りあう場にしたいとの決意も表明している。伊崎修通さんという出版界出身の編集長が雑誌づくりの一切を切り盛りする意欲的な小雑誌である。
今回の政池論考は、大戦の敗戦国ドイツの核開発に焦点を当てたものだ。著者は数多くの書物――専門文献から一般向けの本まで――を読み込み、それらを参照しながらドイツの科学者がナチス体制下で何をどこまで仕上げていたかを具体的に描きだしている。
この論考でまず押さえるべきは、ドイツの核開発が世界の主流とは違ったことだ。
核開発の基本を復習しておこう。原子核のエネルギーを取りだす方法として、科学者が狙いを定めたのが核分裂の連鎖反応だった。ウラン235の原子核に中性子を当てて核を分裂させ、このときに飛び出る中性子で核分裂を次々に起こさせる、というようなことだ。ただ、ウラン235の核分裂は核にぶつかる中性子が高速だと起こりにくいので、原子炉では中性子を低速にする。水を冷却材にする炉では、その水が中性子の減速材にもなる。
ところがドイツの科学者は、減速材にふつうの水(軽水)ではなく、重水を使うことを考えた。重水(D₂O)とは、水をかたちづくる水素原子核の陽子に余計な中性子がくっついているものをいう。重水は軽水よりも優れた点がある。炉内を飛び交う中性子を吸収する割合が小さいので、核燃料の利用効率を高めることができる。その結果、軽水炉では欠かせないウラン235の濃縮が不要になる。天然ウランをそのまま燃料にできるのだ。
ということで当時のドイツでは、天然ウランをそのまま核燃料にする、ただし減速材には重水を用いる、という方針が貫かれた。著者によれば、ハイゼンベルクたちはこの方針に沿って核分裂の実験を重ね、「ドイツ西南部のシュワルツワルト地方にある美しい小さな町ハイガーロッホの教会の地下洞窟に重水炉を建設した」。炉は1945年2月にほぼできあがったが、核分裂の連鎖反応、すなわち「臨界」は実現できなかったという。
この論考で私の心をとらえたのは、ハイガーロッホ炉がなぜ「臨界」に到達しなかったかを考察したくだりだ。著者は、この謎にかかわる数値計算を高エネルギー加速器研究機構の岩瀬広さんに試みてもらい、その考察を2014年、「日本物理学会誌」に連名で公表した。
ハイガーロッホ炉の炉心部は、公開済みの史料によると直径と高さがともに「124cm」の円筒形だった。著者と岩瀬さんの研究では、それぞれの寸法を「132cm」にして「重水の量をほんの少し増やせば、ウランの量は増やさなくても臨界に達する」という結果になった。わずか8cmの不足。臨界まであと一歩だったのだ。「何故ハイゼンベルクはこのような中途半端な原子炉を作ったのであろうか」。著者のこの疑問はうなずける。
著者はまず、重水不足に目を向ける。ドイツはノルウェーで生産される重水を当てにしていたが、工場を連合国軍に壊された。重水を十分に調達できなくなったのは確かだが、それで「臨界にわずかに達しない原子炉」をつくることになったとは考えにくい。
もう一つ、吟味されるのは、ハイゼンベルクが「大惨事」を恐れて「意図的に臨界を避けた」という筋書きだ。ハイガーロッホ炉は核反応の暴走を食いとめる制御棒さえ具えていなかったというから、その可能性はある。ただ著者によると、この炉が臨界に達すると「自動的に定常状態になる」という楽観的な見通しもハイゼンベルクにはあったらしい。いずれにしても、「意図的に臨界を避けた」説を証拠づけるものは現時点で見当たらないという。
ここで私は、前述のインタビュー記事を思いだしてしまう。渡辺さんが語っていたようにハイゼンベルクは「本気でやるのは、ゴメン」という思いから、核開発を「“さぼり”、抵抗していた」のではないか。8cmの節約は、その抵抗の表れではなかったか?
これは、あくまで私の希望的解釈だ。この論考によれば、ハイゼンベルクは開戦前、友人から亡命を勧められて「祖国は自分を必要としている」と答えたという。祖国で「原子兵器」の「開発」を「指導」している事実を恩師ニールス・ボーア(デンマーク)に明かしていた、というボーアの証言もある。一方で、原爆製造は「莫大な費用がかかる」から「直ぐに」は難しい、と政府に進言していたとする文献もある。その胸中はわからない。
一つ言えるのは、ハイガーロッホ炉が臨界を達成しても、原爆はなお遠い先にあったことだ。著者によると、炉内では低速中性子で核分裂を連鎖させるので「連鎖反応に要する時間が長くなってしまい、核爆発には至らない」。このことは「ハイゼンベルクらも知っていたはず」なのだ。米国の広島型原爆は、ウラン235を高濃縮することで高速中性子でも連鎖反応を起こすようにしたわけだが、ドイツにウラン濃縮の計画はなかった。
広島への原爆投下後、連合国の核開発の実態がわかったとき、ハイゼンベルクらドイツの科学者は「爆弾の製造」には関心がなかったと言い張り、「取り組んでいたのは、原子炉からエネルギーを生みだすこと」と強調した、という。現実に炉の研究にとどまったのだから、この強弁は結果として成り立たないわけではない。だが、それは国策として秘密裏に進められたものであり、「原子兵器」の「開発」という方向性を帯びていたことは否めない。
私たちは今、「原子炉からエネルギーを生みだすこと」にも警戒感を抱いている。ハイガーロッホ炉があと8cm大きければ、暴走して〈黒い森〉(シュワルツワルト)の人々に災厄をもたらしたかもしれない。教会地下の炉は、まさに核の時代の原点にあったのだ。
*当欄2021年8月6日付「あの夏、科学者は広島に急いだ」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年10月14日公開、通算648回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
原子爆弾を抜きにしても、ボーアとハイゼンベルク、そしてアインシュタインとシュレーディンガーというような人たちが量子力学の発展に果たした役割は大きく、面白いですよね。
人間関係には年齢の差が結構大きな要素になっていて、ハイゼンベルクはボーアより16歳も若かったから、関係はやはり師弟ということになり、ボーアとハイゼンベルクがシュレーディンガーから話を聞こうとする時も、シュレーディンガーと年の近い(シュレーディンガーより2歳年上の)ボーアが主に話をし、ハイゼンベルクは脇で聞いているという感じになったようです。
ハイゼンベルクがボーアのところに行くのは、師を訪ねて行っていろいろ相談するという感じが抜けなかったでしょうし、ボーアがアインシュタインと話すときには、対等な感じだったにしても、6歳半上の人と接しているという感じが付きまとったにちがいありません。
それほどユダヤ人ぽくなかったにしてもユダヤ人のアインシュタインと、母親がユダヤ人だったボーアは、ともにナチスの台頭によって人生を狂わされます。師であるボーアへの愛情や感謝もあってユダヤ人物理学者を擁護する立場を取り、ドイツの物理学者たちから「白いユダヤ人」と揶揄されたハイゼンベルクもまた、ナチスの台頭によって人生を狂わされたと考えていいでしょう。
デンマークのコペンハーゲンで教えていたボーア、オーストリアのウィーンを拠点としていたシュレーディンガー、スイスのチューリッヒで頭角をあらわしたアインシュタイン、そしてドイツのミュンヘンからコペンハーゲンのボーアのもとに移り「多くの論理の飛躍」をおこなったハイゼンベルク。その後、4人とも居場所を追われ、なかなか大変な人生を送らざるを得なくなったにしても(4人とも戦争の被害者になったにせよ)、4人ともそれぞれの場所が生み出した精神性を色濃く持ち続けたことに驚かされます。
個人的にはシュレーディンガーという人に最も強く惹かれます。広い範囲のことに興味を持ち、文学にも造詣が深く、物理学だけでなく生物学にも化学にも精通していたといいますから、すこし前時代的な巨人です。それに比べるとアインシュタインは大学入試には落ちてしまうとか、確率論が理解できないとか、専門以外はあまり芳しくない20世紀的な専門家だったのでしょう。
ボーアとハイゼンベルクの語らいは、想像するに、とても楽しいものだったように思えます。「それは違うんじゃないか」「じゃあどうなんだ」というような、科学者らしい語らいだったに違いありません。そのなかに「多くの矛盾」と「多くの飛躍」があったにせよ、それこそが科学なのだという感じです。
そんないいものが「原子爆弾」というもので穢されて行ってしまうというのは、悲しいですね。私の想像のなかにいるのは、ハイガーロッホという黒い森のど真ん中にいても量子力学のことを考え続けているハイゼンベルクです。ハイゼンベルクにとって、ボーアに会いにいくということは、量子論について「ああでもない」「こうでもない」と語らいに行くことだったのではないでしょうか。そのなかで原子爆弾のことを話題にしたとしても、それは2次的なこと(あまり大事ではないこと)ではなかったのか。そう思えてしまいます。
ハイゼンベルクという、ある意味天才にしてみれば、量子力学のほうが、原子爆弾よりもはるかに大事だったのではないかという気がするのですが、どうでしょうか?
38さん
《ハイゼンベルクという、ある意味天才にしてみれば、量子力学のほうが、原子爆弾よりもはるかに大事だったのではないかという気がするのですが》
そうですね。
量子力学はもともと、原子核の周りの電子の物理として登場しました。
それが原子核そのものでも成り立つということで、核反応から膨大なエネルギーを取りだす、という野望に結びついてしまった。
ハイゼンベルクにとっては想定外の展開だったかもしれません。
ここで、一歩踏みとどまるという選択肢はなかったのか?
そんなふうにも思います。