今週の書物/
『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』
毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊
転勤族はみなそうかもしれないが、初任地は忘れがたい。私にとって、それは北陸の福井市だ。街の真ん中を城跡が占め、濠に囲まれて福井県庁と県警本部がある。私の職場――新聞社の支局――はその濠端にあり、隣は市役所だった。私が赴任した1977年ごろ、市役所の裏手は再開発の前で飲食店などが狭い通りに密集していた。宿直明けの日は支局長に連れられてメシ屋の暖簾をくぐり、ごはんとみそ汁の朝食を掻き込んだものだ。
その一角は、佐佳枝廼社(さかえのやしろ)という神社の門前町だった。別名、越前東照宮。徳川家康や藩祖の松平秀康、幕末の藩主松平慶永(春嶽)を祀る神社だ。私が記者1年生だったころ、その社に朝方しばしば参拝する人物がいたことを今回、初めて知った。『靖国戦後秘史――A級戦犯を合祀した男』(毎日新聞「靖国」取材班著、角川ソフィア文庫、2015年刊)を読んだからである。その人は元藩主直系の松平永芳氏(1915~2005)だった。
で、今週はこの本をとりあげる。毎日新聞が2006年8月6~19日に連載した記事をもとにしているが、記者たちは連載後も取材を重ねて書籍化したという。2006年夏は、当時の小泉純一郎首相が終戦の日に靖国神社を参拝するかどうかが一大関心事となり、実際、当日早朝に決行された。「靖国」が政治問題化していたのである。本書の単行本は2007年、毎日新聞社から刊行された。それに加筆修正されたのがこの文庫版である。
本書によると、松平永芳氏は1978年、東京・九段にある靖国神社の宮司となる。前任者が同年春に亡くなり、後任に白羽の矢が立ったのだ。選考には、戦没者遺族の意向がものを言う。日本遺族会が動きだし、相談をもちかけたのが元最高裁長官石田和外氏だった。タカ派で知られた人だ。石田氏は同郷の松平氏の名を挙げた。「国や英霊を思う気持ち」が「並々ならない」という理由からだ。福井県選出の自民党有力参院議員も賛成した。
松平永芳氏は元海軍少佐であり、戦後は陸上自衛隊に入った。防衛研修所戦史室史料係長などを務め、1968年に1等陸佐で隊を退くと、郷里の福井市から声がかかり、市立郷土歴史博物館長の職に就いた。参拝の日課はこのときに始まったのだろう。
松平氏が靖国神社の宮司を引き受けるとき、石田氏と交わしたやりとりが本書に再現されている。本人の言によれば、これで受諾の意思を固めたという。松平氏が「日本の精神復興」には東京裁判の否定が欠かせないとして「いわゆるA級戦犯の方々も祭るべきだ」と主張すると、石田氏は「国際法その他から考えて当然祭ってしかるべきもの」と応じた。1978年夏、松平氏は宮司に就任、その年のうちにA級戦犯14人が合祀されたのである。
本書は副題にあるように、その「A級戦犯を合祀した男」の横顔を描きだしている。松平氏が祖父春嶽を崇拝していたこと、その祖父は幕末に開国開明派だったのに本人は国粋的なことなど、興味は尽きない。だが当欄が松平氏に触れるのはここまでとしよう。私がこの本で新鮮な驚きを覚えたのは、靖国神社が戦後、A級戦犯の合祀までどうであったかを詳述したくだりだ。逆説的だが、そこに戦後民主主義の力強さを見てとることができる。
靖国神社は1945年、敗戦で存亡の危機に立たされる。このときに宮司の役が回ってきたのは元皇族だ。筑波藤麿氏(1905~1978)である。山階宮家出身だが成人後、臣籍降下して侯爵となった。当時、皇族男子は軍務に就くのがふつうだったが、筑波氏は東京帝国大学文学部に学び、国史の研究家となる。そして1946年1月、靖国神社宮司に就任。この時点では「国家公務員」だったが、翌週には宗教法人の一宮司に立場が変わっている。
本書によれば、この人選には「占領軍や世論に配慮して、できるだけ軍と縁遠い人物を選ぶ」との方針もあったという。事情を知る筑波氏の長男、常治氏の見解である。ちなみに常治氏(1930~2012)は科学評論家で、生物学や農学、エコロジー思想に詳しかった。レイチェル・カーソン著『沈黙の春』の新潮文庫版で解説を執筆、これは当欄の前身でも紹介している(「本読み by chance」2019年2月15日付「『沈黙の春』の巻末解説を熟読する」)。
興味深いことに、筑波宮司自身も自分を「白い共産主義者」と形容していた。「赤色までは行かないけど桃色だ」と冗談めかすことも。毎日新聞取材班は、筑波氏が言う「共産主義」を「戦後民主主義や平和主義をもっと徹底させた理想」と解釈している。
その象徴が、境内にある「鎮霊社」だ。高さ3mほどの小ぶりな社で、参道から見ると本殿の左側奥に建っている。1965年の建立。立て札には「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀されぬ人々の霊を慰める」とあり、「万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する」と明記された。大日本帝国の軍人だけでなく、民間の戦争犠牲者も、敵国を含む諸外国の戦没者も、慰霊と鎮魂の対象とすることを明言しているのである。
鎮霊社の着想は1963年、筑波氏が「核兵器禁止宗教者平和使節団」の一員で欧米諸国を回ったことがきっかけだった。団長は立教大学総長、副団長は筑波氏と薬師寺管主、立正佼成会会長という顔ぶれだった。東西冷戦で核戦争が危惧されるなか、宗教界の要人が宗派を超えて平和主義の旗を振ったのである。筑波氏の主張は「社報」1964年1月号にある。日本が「自己中心の幼稚なる殻にとじこもって居る」限り「真の平和は得られぬ」――。
靖国神社は戦後30年余、戦後民主主義の理想追求に同調していた。これは今の感覚では意外だが、1960年代に立ち返ればありそうなことだった。ここで書き添えれば、靖国神社には戦後民主主義のもう一つの側面、軍事より経済優先の気配もあったことだ。
ここに登場するのが、横井時常氏という人物だ。靖国神社では「ナンバー2」の「権宮司」という職にあった。1946年初め、筑波氏が宮司となる直前だが、横井氏は連合国軍総司令部(GHQ)の宗教課長に一つの提案をしている。戦前から「軍事博物館」として付設されている「遊就館」を一新させる将来構想だった。「娯楽場(ローラースケート・ピンポン・メリーゴーランド等)及び映画館にしたい」(原文のママ)とぶちあげた。
この構想は、ただの思いつきではなかった。それどころか、具体性を帯びてくる。横井氏の証言を載せた『靖国神社終戦覚書』によれば、神社周辺を娯楽街に生まれ変わらせる案が1946年秋までにまとまり、地権者や役所との接触も始まっていた。神田界隈の大学生に狙いを定め、神社敷地内に映画館を集める計画。総数20館というから、今で言えばシネプレックスか。近隣の焼け跡にも音楽堂や美術館を立地させようとしていた。
この娯楽化路線は何を意味するのか。靖国神社も戦後は一事業体となり、存続のために経営戦略を求められていたということか。それとも、靖国が人々に愛されるために世相に歩み寄ろうとしたのか。どちらにしても、私には戦後民主主義の落とし子のように思われる。
ただ、娯楽街づくりの計画は戦没者遺族から反発を受け、頓挫した。ただ、靖国神社にはその後も、生臭い構想がもち込まれたり、絵空事の案が浮上したりしたらしい。「浅草のような歓楽街にする」「パリの『のみの市』界隈に似た一大歓楽街にする」……。
本書によると、靖国神社では戦後、数多の案が生まれては消えた。たとえば「靖国廟宮」構想。横井氏が、GHQには靖国神社を「記念碑的なもの」にしたいとの意向があるらしいと察知、先回りして出した改称案だった。雑誌刊行を画策したという話もある。有名作家を編集長に招き、本気で読者をつかもうとしたようだが、構想倒れに終わった。映画街といい、雑誌創刊といい、靖国神社は文化の拠点になることを夢見ていたように見える。
「靖国」は戦後しばらく、良くも悪くも世間並みだった。世俗的ではあったが、理想主義の風も吹いていた。日本のリベラル派陣営はなぜ、それに気づかなかったのか。風を生かして対話を重ねていれば、世論を二分しない鎮魂のあり方を見いだしていたかもしれない。
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(執筆撮影・尾関章)
=2023年2月3日公開、通算664回
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