今週の書物/
『イルカの島』
アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊
私のように1950~60年代、東京西郊に育った世代にとって、海と言えば江の島だった。正しく言い直せば、江の島の対岸にある藤沢市の片瀬海岸だ。当時の小田急電車は相模大野から江ノ島線に入ると、林地や田畑の只中を突っ切った。やがて、終点の片瀬江ノ島駅に着く。駅舎は、竜宮城を模した造り。子どもにとっては、これだけで遠足気分になったものだ。そこからちょっと歩けば砂浜に出る。眼前には白波の押し寄せる海が広がっていた。
小学校にあがる前だったか、あるいは、あがってまもなくだったか、真夏の一日、祖父母に連れられて、この海岸に来た。祖父母は当時の感覚からすればもう年寄りの域に達していたから、浜辺で水着になることはなかった。足を向けたのは、海沿いにある「江の島水族館」(現・新江ノ島水族館)。お目当ては、館の付属施設「江の島マリンランド」である。プールで水しぶきをあげて繰り広げられるイルカショーが人気の的だった。
今、新江ノ島水族館(「えのすい」)の公式ウェブサイトを開くと、沿革欄にその記述がある。マリンランドは1957年5月に開業。飼育は、カマイルカ3頭から始まった。「日本で初めてイルカの持つ能力をショーという形にアレンジして紹介することに成功」とある。
喝采があった。イルカたちが水面から跳びあがる。次から次へ弧を描いて空を切り、再び水中に消える。それが人間による調教の結果であり、イルカは芸をさせられているのだとしても、私たちはその芸達者ぶりに見とれたのだ。だが今、私たちは同じものを目のあたりにしても、あれほど素直に胸躍らせることはないだろう。現に私は近年も「えのすい」を訪れ、ショーを観ているが、心の片隅には一抹のわだかまりがあった。
それは、「動物の権利」(“animal rights”)が脳裏にちらついたからだ。この言葉を私は1990年代、欧州に駐在していたとき、しばしば目や耳にした。動物の権利保護は旧来の動物愛護とは別次元にある。家畜や実験動物の待遇、動物園のあり方などについて動物側の視点から問い直そうとする。私は、その主張がときに矛盾をはらむことに違和感を抱きつつ、人間がこれまであまりにも自己中心的だったことに気づかされたのである。
この機運の例を挙げよう。世界動物園水族館協会(WAZA)は2015年、イルカを入り江に追い込む捕獲法(追い込み漁)が「倫理・動物福祉規程」(画像)に反するとして、この方法で捕まえたイルカが日本で飼育されていることに警告を発した。これを受けて、日本動物園水族館協会(JAZA)は追い込み漁で獲ったイルカを買い入れることを加盟施設に禁じた。今ではイルカショーのあり方も、動物の権利や福祉の観点から見直されている。
で、今週は『イルカの島』(アーサー・C・クラーク著、小野田和子訳、創元SF文庫、1994年刊)。原著は1963年に出た。著者(1917~2008)は、『2001年宇宙の旅』で知られるSF作家。英国生まれだが、後半生はスリランカ(旧名セイロン)で暮らした。宇宙開発やITに象徴される第2次大戦後の科学技術を前のめりにとらえた人だった。ただ、その前のめりは衛星通信時代の到来を予言していたように、ときに的を射ていた。
本書も書き出しは、表題『イルカ…』に似合わず、近未来SF風だ。21世紀、深夜の北米内陸部。「谷間沿いの古い高速道路を、空気のクッションにのって、そのホヴァーシップは疾走していた」。それは、水陸両用の高速交通手段だ。轟音を発しながら近づいてきたが、その音が急に止まる。「いったいなにがおこったのだろう?」。主人公のジョニー・クリントンはベッドから抜けだして、その高速浮揚船「サンタアナ号」を見にゆく。
ジョニーは、幼いころに両親を航空機事故で失っていた。叔母の家庭で育てられたが、疎外感を拭いきれなかった。そこに突然、世界中を駆けまわる乗りものが現れたのだ。「チャンスが手まねきしているのなら、それについていくまでだ」。こっそり、黙って乗り込む。サンタアナ号はまもなく動きだした。積み荷の表示からみると、行き先はオーストラリアらしい。太平洋に出て大海原を突っ走る……。そして予想外の沈没事故が起こる。
ここからが、作品の本題だ。ジョニーが海面の浮遊物をいかだにして漂流していると、イルカの群れが近づいてきて、いかだを押してくれるではないか。連れてこられたのは、オーストラリア北東沖に広がるサンゴ礁地帯グレート・バリア・リーフの小島。島民は、そこを「イルカ島」と呼んでいた。イルカとの意思疎通を試みる研究所があるのだ。ジョニーは島に居ついて、研究所の創設者カザン教授やキース博士、そしてイルカたちと交流する。
研究室には、電子機器がぎっしり置かれている。教授と博士はスピーカーから聞こえてくる音に夢中だ。どうやら、イルカの鳴き声らしい。細部まで聴きとろうと、録音テープの回転数を落として再生している。イルカの発声に発信の形跡を見てとるつもりなのだろう。
ジョニーは、教授がイルカ語をしゃべるのも聞いた。それは、「器用にくるくると調子の変わる口笛」だった。教授によれば「イルカ語を流暢にしゃべることは、人間にはまずむり」。だが、自分は「ふだんよく使ういいまわしだったら十くらいは、なんとかしゃべれる」と言う。イルカ界には仲間内で通じるイルカ語があり、それは人間でも片言ならば習得できる――教授には、そしてたぶん著者自身にも、そんな確信があるらしい。
私が興味を覚えるのは、この作品は筋書きが牧歌的なのに、小道具が妙にテクノっぽいことだ。執筆時点の1960年代は、「半導体素子を使った精密な電子部品」が出回り、エレクトロニクスの開花期にあったからだろう。教授がジョニーに「きみにやってもらいたい仕事がある」と言って差し出すのも、キーが並ぶ「電卓のような装置」。腕時計式に腕に巻いて使う。家電のリモコン、あるいはウェアラブル端末の原型がここにはある。
キーの表示は「止まれ」「いけ」「危険!」「助けて!」……。キーを押せば「キーに書いてある言葉が、イルカ語できこえる」と教授。ジョニーに水中でこの装置を使ってもらい、イルカがどんな反応を見せるかを探ろうというのだ。イルカたちは、たいていのキーに的確に対応したが、「危険!」を押しても動かなかった。この実験が、人間の企てた「ゲーム」と察知したらしい。「彼らのほうが頭の回転が早いことはたしかだ」と教授は驚嘆する。
教授には、いくつかの構想があった。その一つが「海の歴史」をイルカに聞くことだ。人類の文明史は、古代や中世の詩人の記憶を通じて「何世代にもわたって継承」されてきた。だがそれは、有史時代の出来事に限られる。イルカにも「すばらしい記憶力」があるので、詩人の役目を果たす語り部がいるはずだ。実際に教授は、そんな語り部が語ったという伝説の一部を知り合いのイルカから聞いていた。それは人類が及ばない時間幅の物語だった。
伝説のなかには「太陽が空からおりてきた」という文言があった。大爆発があり、海水は熱湯と化して周辺のイルカは息絶え、逃げ延びたイルカもしばらくして死んだという。ここで、博士は驚くべき解釈をする。「数千年前に、どこかに宇宙船が着水した」「核エンジンが爆発し、海が放射能で汚染された」。教授もこの見方を支持して、知的生命体の飛来があったという仮説を立てる。それで、イルカからもっと話を聞きだそうとするのだ。
この作品は、エレクトロニクスがたかだか電卓級の技術水準でしかなかったころ、その先に広がる情報技術(IT)の時代を見通している。描かれるのは、通信のネットワークに海洋哺乳類を引き入れようとする人々だ。人類の記憶を有史、地上の制約から解き放って、有史以前や海洋に拡張しようという発想は良い。人とイルカの交流も微笑ましい。だが、そこに見られるイルカへの友愛と期待は、動物愛護という地点にとどまっているように思える。
気になるのは、シャチに対する実験だ。シャチはクジラ目マイルカ科の海洋哺乳類だが、広義の仲間と言ってもよいイルカですら捕食してしまう。そこで教授は、生理学者のチームにシャチの「教育」を委ねる。脳内に電極を装着して脳の働きを調べたり、電流をアメとムチのように使って行動を制御したりする、というものだ。こうしてシャチは、イルカを襲わなくなった。イルカにとっては都合よいが、シャチの権利は完全に無視されている。
ジョニーは、生理学者がシャチの脳を電気仕掛けで操作する様子を見て、「自分もこんなふうに他人にコントロールされる可能性があるんだろうか?」と自問する。悪用されれば「核エネルギー」と同様、「危険な道具」になる――。この点では、著者も科学技術に対して前のめりではない。ただシャチの実験には、もう一つ別の問題があることを忘れてはならない。それは動物の権利を、エコロジーに適うかたちでどう重んじるか、という難問だ。
人間が異種の動物に知性を見いだすことは、動物の権利尊重につながる。人知が相対化され、知性の多様さに気づく契機にもなる。だが、知的で友好的だからと言って、その種ばかりに肩入れすれば生態系の平衡が失われる。可愛い異種だけを可愛がってはいけない。
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年8月27日公開、同日更新、通算589回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
イルカのこと(そしてクジラのこと)は、今の日本を象徴しているように思えてなりません。アジアのトレンドにもヨーロッパのトレンドにも鈍感で、日本が作ったシナリオに固執するというのは、今の日本の最大の弱点ではないでしょうか。
動物園や水族館について言えば、「生態系についての理解を広めるところ」とか「絶滅の危機にある生き物の保護するところ」という考え方が世界中で急速に広まるなか、日本では「狭いオリや水槽のなかに生き物を閉じ込めて見せるところ」とか「動物に芸を仕込んでショーを見せるところ」という考え方にはまっている。世界中のトレンドから孤立して、「虐待をしている」と言われてもなんのことだかわからないでいる。生き物を閉じ込めることとか、生き物本来の生き方を損なうこととかが、動物虐待だという意識を社会全体で持てないでいるのです。
地球温暖化や平等・人権といった世界的な共通課題に対し、日本政府は教科書的・優等生的・官僚的に「取り組んでいる」と言うけれど、社会の意識はないに等しいし、世界中で進んでいる管理社会の構築に対しても、危機意識は薄い。問題は、イルカに限ったことではないように思えます。
さて新江ノ島水族館ですが、数ある日本の水族館のなかでも、特に日本を象徴しているように思えてなりません。2015年4月にWAZAが太地町でのイルカの追い込み漁を理由にJAZAの資格停止を通告し、2015年5月にJAZAがWAZAに留まることそ選択して加盟水族館に追い込み漁で捕獲したイルカの購入を禁止を求めた後、新江ノ島水族館はJAZAを脱退している。新江ノ島水族館は繁殖に取り組んでいて(飼育するバンドウイルカ10頭中7頭が館内で生まれた)、脱退の必要性はないように見えたのだが脱退した。世界のトレンドもわかっていて敢えてショーを続ける道を選んだのです。これほど日本的なところはない。
JAZAの脱退に積極的にかかわった人たちは、イルカのことで世界が2つに割れるのは残念だというけれど、世界が2つに割れているのではなく、日本が孤立しているということを早く認めたほうがいい。外から日本を見れば、その孤立の様は北朝鮮とダブって見えます。
日本が(アメリカ化ではない)グローバル化して、隣の国々とも遠い国々とも協調してやっていける日がやってくるのを夢見るばかりです。
38さん
《イルカのこと(そしてクジラのこと)は、今の日本を象徴しているように思えてなりません。アジアのトレンドにもヨーロッパのトレンドにも鈍感で、日本が作ったシナリオに固執するというのは、今の日本の最大の弱点ではないでしょうか》
イルカ/クジラの問題では、このご指摘にまったく同感ですね。
私も取材を通じて、それを実感しました。
欧米(一部を除く)は、動物の権利保護問題として日本の捕鯨を批判している。
その背景には、1960年代からのエコロジー思想がある。
ところが日本側は、捕鯨を相変わらず食糧資源問題ととらえ、資源枯渇の心配はないというデータを出すことばかりに労力を費やしている。
エコロジーの立場から反捕鯨を批判し、捕鯨を支持することもできると思うのですが、そういう視点に立とうとしないのですね。
そんなすれ違いの末のIWC(国際捕鯨委員会)脱退だったように思えてなりません。
尾関さん、
「可愛い異種だけを可愛がってはいけない」というフレーズのことを、ずっと考えています。
「ある種の動物や植物を大事にしていたら増えすぎてしまった」とか「人の生活様式が変わったら動物や植物の生態が変わってしまった」というようなことをよく耳にします。オーストラリアの島の鹿とか、瀬戸内海の島のネズミとか、大都市のゴキブリとか、いろいろなことが浮かんできます。
品種改良のことも考えてしまいます。限られた品種ばかり生産していたら飢饉が起きてしまったとか、大量生産ばかりを続けていたら農薬の使用量が増えてしまったとか、人の考えは及ばないことばかり。
人が何かをすると、必ず予期しないこと(副作用みたいなこと)が起きますよね。化学を持ち込めば公害が起きる。ダムを作ったら天候が変わる。原子力の平和利用が災害の原因になる。
科学のせいで起きたことを、科学が解決できないでいる。
結論の出ないいろいろな考えが、頭のなかをグルグルめぐっています。厄介です。