今週の書物/
『スライディング・ドア』
ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊
恋愛沙汰は、まさに量子力学的だ。ひょんなことから、ひょんなことが起こる。ひょんなことで、それからの人生が左右されたりもする。当事者は偶然の妙に翻弄されている。
当欄は今年、折に触れて「量子」を話題にしてきた(*)。クリスマスイブのきょうは、恋物語を量子力学風にとらえてみよう。量子力学の世界では原子や電子の状態がいくつも重なり合うが、観測されたとたん、それが一つに決まる。恋物語もこれに似ている。初めはもやもやしているのだが、なにか事件が起こると霧が払われ、見えなかったものが見えるようになる。可能性の膨らみが一気にしぼんで、筋が定まるという感じだ。
もっとも、このようなこじつけが成り立つのは「コペンハーゲン解釈」に立脚したときのことだ。量子力学の教科書的な解釈である。この考え方を踏まえると、物理系の〈重ね合わせ→観測→状態の収縮〉は人間系の〈可能性→事件→筋書きの確定〉に対応する。
コペンハーゲン解釈では、物理系が観測の瞬間にどの状態に落ち着くかを確率論で考える。これを恋物語に当てはめてみよう。AがBに恋心を抱いたとして、その後の筋書きはAが思いを遂げられる確率が10%、振られる確率が90%というように数値化される。これをAの視点から見たときに言えるのは、バラ色の未来が10%、灰色の未来が90%というだけではない。自分の未来がバラ色か灰色のどちらか一方になるということも含意されている。
ただ、量子力学の解釈はコペンハーゲン解釈だけではない。たとえば、異端と言われながらも最近注目度が高まっている多世界解釈がある。この見方では、物理系の観測者は観測のたびに身を分かち、それぞれの分身が別々の世界へ入っていく。物理系を〈P〉と観測した分身は物理系〈P〉の世界へ、物理系を〈Q〉と見た分身は物理系〈Q〉の世界へ進むのだ。このとき、その観測者の未来は無数にあると言ってもよいだろう。
ここで、AとBの恋物語を多世界解釈流に考察してみよう。二人の関係が量子力学的に展開するとすれば、そこには、AがBの心をとらえる未来も、AがBに見捨てられる未来も、確実にある。Aから見てバラ色の物語も、灰色の物語も、ともに成立するのだ。もし恋愛小説家がどちらか一方の筋書きを描いて終わりにしたら、それは恋物語の一部だけを拾いあげたことになる。世のたいていの恋愛小説は、そこにとどまっているのだが……。
で、そうではない作品を紹介したくなった。英米合作の映画「スライディング・ドア」(ピーター・ホーウィット監督・脚本、1997年)だ。主人公は、ロンドンの広告会社に勤めるヘレン、29歳。グウィネス・パルトロウが演じた。彼女は会社をクビになった日、地下鉄に飛び乗ろうとした瞬間、二人に分かれる。ここに流れ図を示そう。これは、『量子の新時代』(佐藤文隆、井元信之、尾関章著、朝日新書、2009年刊)の掲載図をもとにしている。
この映画を最後に観てからもう何年もたつので、細部は忘れてしまった。そこで今回、私は小説版を手に入れた。『スライディング・ドア――SLIDING DOORS』(ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊)である。訳者のあとがきによると、著者はもともと俳優業の人で、これは監督第一作だった。ロンドン市街で道を渡ろうとしたとき、「あやうく車にはねられかけ、作品のアイデアがひらめいた」という。
一読して気づくのは、映画版と小説版で作品の印象が異なることだ。映画版では、登場人物の動きをカメラの目で追いかけている。人物描写が、客観的なわけだ。ところが、小説版は登場人物の意識の流れをたどることで、その人物の目に映る世界を主観的に描きだしている。この差異はふつう、小説を映画化したり映画をノベライズしたりするときにはそれほど気にならない。だが、物語が多世界含みとなると、注意が必要になる。
映画版では、物語が地下鉄ホームの場面で流れ図のa)b)に分かれ、それらが交互に展開される。a)の話がちょっと、b)の話がちょっと、再びa)をちょっと……という具合だ。小説版もa)b)交互は同じだが、ヘレンの視点の「プロローグ」があった後、第1章は彼女の同棲相手ジェリーの視点、第2章は地下鉄でたまたま隣の席にいたジェームズの視点、第3章はまたジェリーの視点……と第6章まで進み、「エピローグ」でヘレンに戻る。
したがって小説版1~6章で、a)の筋は一貫してジェリーの目で描かれる。逆にb)の筋をたどるのはジェームズの目だ。このようにa)b)は、ただ分岐した並行世界というだけではない。そこには、ジェリーとジェームズの主観も投影されている。
ここで気づくのは、多世界の概念が客観を前提にしていることだ。一人の人物が分岐する様子は、遠目に眺めるようにしか思い描けない。天空の視点が必須と言ってよい。ところが、人間の主観は地上の視点にとどまっている。小説版の読者は、プロローグや各章、エピローグごとにヘレンやジェリー、ジェームズの主観に引きずられ、さらにその分身一人から見た世界しか意識できない。それが枝分かれの一つであることを忘れがちになる。
多世界を感じとるには、別々の主観に身を寄せて物語を吟味するのは得策でないということだろう。この小説版ならば、ヘレンの一人称で書かれたプロローグとエピローグに的を絞り、一人の人間にとって世界の枝分かれがどんな意味をもつのかを考えてみたい。
プロローグでは、ヘレンが同僚とのいさかいで「つまりわたしはクビね」と啖呵を切り、オフィスをとび出る。ビル内のエレベーターを待ちながら思いめぐらすのは、ジェリーとのこれからだ。彼は作家志望なので、無収入。働いてもらうか。いや、「ダメダメ。ジェリーには世紀の大傑作を書くという使命がある」。自分がスーパーマーケットに働きに出るか、それともウェイトレスになるか……そんな未来の構想が頭のなかで渦巻くのだ。
エレベーターがやって来る。ヘレンは乗り込む。このとき、イヤリングが耳から外れて下に落ちた。チリンという音。乗り合わせたビジネスマン風の男が気づき、拾いあげてくれた。これが筋書きb)の伏線。その男性がジェームズだったことは、後の章でわかる。
ヘレンは通りに出て、携帯電話をとりだす。ジェリーに電話をかけるが、ずっと話し中だ。この事情は、a)の第1章を読むとわかる。「役立たず!」と内心穏やかではないが、「ダメダメ。いまのわたしには彼しかいないんだから」と思い直して地下鉄駅へ向かうのだ。
駅は降車客であふれていた。幼い女の子が人形を手に、下り用の階段を昇ってくる。ふだんなら子どもの愛らしさに免じて気にもならないのだろうが、今のヘレンは「しつけがなってない」とイラつく。「待って」「わたしはその電車に乗ります」「お願い、どうしても乗りたいの」と心は急く。一瞬先に二つの未来があるのだ。「もしもその電車に乗れなかったら……」「もしもその電車に乗れたら……」。プロローグは、そんな2行で結ばれる。
こうみてくると、ヘレンの人生には「乗れなかったら」と「乗れたら」の枝分かれに先だって、分岐後の筋のタネが仕掛けられていることがわかる。未来の構想がある。未来の伏線もある。1~6章をみると、一つの世界a)では構想通りの生活が始まるが、それがハッピーエンドになるとは限らない。一方、もう一つの世界b)では構想がズタズタにされ、代わりに伏線が実を結ぼうとするが、それが成就すると決まったわけでもない……。
エピローグにも触れておこう。ネタばらしをしたくないので詳細は明かせないが、このときのヘレンは、流れ図でいえばa)の世界にいて、今は入院中の身だ。病室で思案するのは「あの日、もし地下鉄のあの電車に間に合って乗れていたら、わたしはどうなっていたかしら」ということだ。ただ、そんなふうに思うa)の「わたし」は、プロローグの伏線がb)の「わたし」にもたらした劇的な筋書きをまったく察知できないでいる。
「私」がもし多くの並行世界のどれか一つにいるのだとしても、別の世界の別の「私」とはこのくらいの距離感にあるということだ。どこかの世界に、自分と同じ過去を共有する「私」がいて想像もつかない人生を歩んでいる――それはそれでよいではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月24日公開、同月26日更新、通算606回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
波動関数のみを世界の現実とみる多世界理論によれば、私も世界も無数にあるものの世界間相互の連絡は不可能とのこと。
しかし、世界が無数にあるならば、中には波動関数の理論を深化させ、多世界間相互の連絡を可能にする手立てを確立している世界もあるかも知れない。
そしてある日、その世界の「虫」から全ての世界の「虫」に対して招待状が届く。無数の「虫」が一同に会する「虫の日」への誘い。
さて、無数の自分にどう接したらいいのだろう?やはり、自己同一性が気になる。
虫さん
《無数の「虫」が一同に会する「虫の日」への誘い》
分身サミット?
愉快な発想ではありますね。
とはいえ僕の場合、会いたくないヤツばっかりだろうな、分身たちは。
それを知って、今ここにいる分身の良さに気づくかもしれません。
分身サミットの空想実験は、自分嫌いの人が今の自分を肯定し、自惚れの強い人が今の自分を批判的に見る契機になるでしょう。
多世界論が私たちの心理に与える影響は小さくないように思えてきます。