今週の書物/
「クリムト 接吻」
外岡秀俊執筆
『世界 名画の旅4 ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班、朝日文庫)所収
あのころに見ておきたかったなあ、という絵がある。19世紀末から20世紀初めにかけて欧州の画壇に新風を吹き込んだオーストリアの画家グスタフ・クリムト(1862~1918)の作品群がそうだ。1990年代のロンドン駐在時代、ウィーンに出張する機会は幾度かあったが、仕事の合間に美術館をのぞく時間はなかった。夏休みや冬休みに見にゆく手もあったが、家族旅行の立ち寄り先としてクリムトの絵は優先順位が高くはなかった。
クリムトの絵と言えば、女性のエロティックな姿が目に浮かぶ。ただし、それは解毒され、気品が漂っている。あの沈潜した色調のせいだろうか。あるいは、捻りがきいた構図がもたらす効果なのか。いずれにしても、従来の絵画世界にない何かがそこにはある。
この画家が「ウィーン分離派」創始者の一人とされていることも、彼の絵に心惹かれるようになった理由の一つだ。「分離派」と聞くと、私は建築をすぐに思い浮かべてしまうのだが、この用語は実は分野の垣根を超えた一群の芸術家を指すものだった。美術作品であれ、建造物であれ、旧来の様式から離れて新しいものをつくろうというのが分離派の芸術運動だ。19世紀末、オーストリアやドイツで台頭した。その源流にクリムトがいたことになる。
建築について言えば、分離派の作品群はギリシャ、ローマ、ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロック……と続く歴代の建築様式が国際様式と呼ばれるモダニズム建築にとって代わられる端境期に現れた。型にはまらず自由、重厚というより軽快――そんな印象を受けることが多いので、私は好きだ。それは、クリムトの絵画にも通じる。あの沈潜した色調も、捻りがきいた構造も、絵画界での様式離脱の産物と言えるのだろう。
で、今週は、そのクリムトの絵について書いた文章を読む。『世界 名画の旅4――ヨーロッパ中・南部編』(朝日新聞日曜版「世界 名画の旅」取材班著、朝日文庫、1989年刊)所収の「クリムト 接吻」(外岡秀俊執筆)だ。朝日新聞日曜版1985年8月4日付紙面に載った記事の文庫版再録である。著者は1953年生まれの朝日新聞記者(当時)。去年暮れ、病に倒れて死去した。その人となりは今年2回、当欄で触れている。(*1、*2)
中身に立ち入る前に「世界 名画の旅」という企画について説明しておこう。これは1980年代半ば、朝日新聞が日曜版の目玉商品として始めた連載。日曜版がカラー刷りだったことをフルに生かして、世界各地の美術館などに所蔵された絵画を大きく載せ、その作品にまつわる話題を掘り起こして記事にするというものだった。執筆陣は、筆力がある名うての記者ばかり。バブル経済崩壊前のことなので海外出張にも潤沢な予算がついたようだ。
「クリムト 接吻」の書き出しも紀行文風だ。ウィーンの町並みを見物するには市電の環状線に乗ればよい、という話から始まる。約40分で旧市街を1周。この路面電車の通り道が「リング通り」だ。「窓からは、ハプスブルク帝国期に建てられた荘重な建物のシルエットを眺めることができる」。劇場、大学、市役所、議事堂、王宮、博物館、美術館……。この道路は1857年、当時のオーストリア皇帝の意向を受けて建設が始まった。
皇帝は何を望んだのか。もともとリング通り一帯には「旧市街を囲む城壁」があった。それをあっさり取り壊して「強大な帝国の威光を示す建物」を次々に配置していく。30年ほどかけての大事業。中世の城郭都市を近代の帝都につくりかえたかったのだろう。
このリング通りのことは、私も『ハプスブルク三都物語――ウィーン、プラハ、ブダペスト』(河野純一著、中公新書)を紹介したときに触れている。この本は、それを「分離派」と関係づけていた。ここでは、拙稿のその一節をそっくり引用しよう。
《当時の帝都はフランツ・ヨーゼフ皇帝のもとで市壁が壊され、環状のリング通りができてネオゴシックやネオバロックなど懐旧的な様式建築が並んでいた。これに反発したのが分離派の建築家だ。オットー・ワーグナーは著書『近代建築』で「われわれの芸術的創造の唯一の出発点は近代生活」と宣言したという》(*3)。皇帝の近代はしょせん、旧時代の様式をなぞるものだった。そうではない本当の近代を分離派は求めていた。
では、分離派クリムトは画家として、どんな近代をめざしたのか。「接吻」という作品に沿って考えてみよう。この絵では、肩を露わにした女性が花園に立ち、男性の接吻を受けている。目を閉じてうっとりした表情、体にぴったり合った着衣が官能的だ。不思議なのは、男性の足が地についていないことだ。そう思って見ると、女性は横たわっているようでもある。二人をくるむように描かれた模様がベッドを覆う布の柄にも見えてくるではないか。
「接吻」記事はこう読み解く――。絵が「官能を大胆に描きながら、不思議にみだらさを感じさせない」のは「『死』のイメージ」が「放逸な悦楽」を粉砕しているからだ。「悦楽に沈む女性」は「つま先を絶壁の端にかけ、かろうじて現世に踏みとどまっているかに見える」。ここで「絶壁」とあるのは、花園が画面右側で途切れているからだ。「途切れる先に広がる金色の奈落――それは、ウィーンが置かれた現実そのものだった」とある。
「接吻」が描かれたのは1907~1908年。そのころ、ウィーンは華やかさの陰で「死の病に侵されていた」。帝国の支配は民族主義のうねりを受けて崩れそうだった。帝都にも経済格差の亀裂が走り、リング通りの外側には、内側の繁栄と隣り合わせの貧困があった。
「接吻」記事は、クリムト作品の「官能」が19世紀末~20世紀初めに「もてはやされた」理由を探っている。着目するのは「性に対する意識」だ。記事によると、帝都には表向き「性」に触れない空気があった。その裏で、街には売春行為など「性」があふれていた。リングの内外に繁栄と貧困があるように、「性」にも二重性があったのだ。クリムトの絵は、上流階級の気品漂う世界にも実は官能が潜むことを強調しているように見える。
記事のもう一つの読みどころは、この時代にこの都市で画家を志した二人の青年を対比させていることだ。二人には、ウィーン美術アカデミーの入試を受けたという共通点がある。一人は1906年に合格した。後にクリムトの弟子となるエゴン・シーレだ。「死と少女」などの作品で知られる。もう一人は1907年と1908年に受験したが、合格できなかった。その人物の名はアドルフ・ヒトラー。やがて独裁者となるあの人である。
記事の筆者外岡がすごいのは、シーレ青年とヒトラー青年がウィーンで住んだ場所をすべて見てまわったことだ。どちらも転居を繰り返したようで、居住先はそれぞれ6カ所ずつ。1908年には、二人の住まいが300mの近距離だったこともある。面識はなくとも「人込みの中で視線を交わしたこと」くらいはあっておかしくないという。もう一つ興味深いのは、二人とも最初と最後の住まいがリング通りの外側にあったことだ。
実際、「リングの外」は二人に影響を与える。ただ、その方向はまったく異なっている。
シーレは美術アカデミーを退学して「リングの外」の労働者街に住み、貧しい人々をモデルに絵筆をとった。ウィーンの世情は、リング内側の虚飾が剥げ落ちる時代にさしかかっていた。そこで「当時の美術の主流だった装飾的な要素を捨て、切り込むように赤裸々な人間を描いた」のである。これは、クリムト作品がリング建設期の余韻を漂わせているのと対照的だ。「接吻」でも、官能は装飾性のある衣服や花畑に包まれていた。
ヒトラーも、「華麗なウィーンの幻影の裏に潜む悲惨」を目の当たりにしたところまではシーレと同じだ。だが、そのウィーンに憎しみを募らせ「腐敗の根源にユダヤ人がいる」という妄想にとらわれる。これが人類史に刻まれる残虐行為の駆動要因となった。
この記事には、ヒトラーの絵画作品が1点載っている。1907年ごろ、リング通りをやや上方から見通した水彩画だ。遠近法に従っているのに平板。陰翳がほとんどない。このありきたりな絵の描き手が、世界をあのような悪夢に陥れたとは――。一瞬、背筋が凍った。
*1当欄2022年2月4日付「外岡秀俊の物静かなメディア批判」
*2当欄2022年3月4日付「外岡秀俊、その自転車の視点」
*3 「本読み by chance」2017年3月17日付「欧州揺らぐときのハプスブルク考」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月29日公開、通算624回
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尾関さん
私はフェイスブックのアカウントを持っています。海外に多くいる友人達との近況の交換に役立つというのがひとつの理由。
もうひとつは「同好の士」のページが多いこと。映画や映画俳優、音楽、絵画芸術など、そのジャンルは多岐に亘ります。
私も何人かの画家のページをフォローしていますが、そのうちの一人にクリムトがいます。
クリムトの名を聞くと自然に幾つかの絵が脳裏に浮かぶ人は多いでしょう。そしておそらく、人は違っても脳裏に浮かぶその絵は同じものだろうと想像します。アカデミアがある脈絡でクリムトを紹介してきたためだと思います。つまり、あるフィルターを通されている。
「同好の士」のページが有難いのは…無論、クリムトの歴史的位置づけを評価している人達も多いとは思いますが…とにかくクリムトの絵そのものが好きで好きでたまらないという世界中の老若男女が好みの絵を載せてくるところにあります。
だから、どこから探してきたのかと驚くような絵が時々ページに現れます。
例えば、古典主義的な絵や素描(デッサン)。単に私が知らなかっただけかもしれません。しかし、デッサンの素描力などは素晴らしい。素描力といえばエゴン・シーレがよく話題になります。下絵やデッサンを描き始めれば全く訂正することなく一気に完璧なものを描き上げてしまったそうです。でも、クリムトのデッサンも画家としての卓抜した能力を感じさせてくれます。
さて、クリムトから連想すること。ひとつは「ウィーン分離派」のリーダー。過去の形式や伝統から決別し、純粋に美を追求した画家。「耽美的」という言葉が相応しい。
もうひとつは「ウィーン世紀末」のクリムト。この脈絡では「退廃的」という言葉が心に浮かびます。凋落しつつあったハプスブルク的な文化に追い討ちをかけるような、或いはキリスト教倫理を否定するような運動や絵画芸術が「退廃的」なイメージを生むのでしょう。結局は同じことを別の視点から語っているように思います。
最後に現在を生きるウィーンの人々から日本人に向けた苦言を。
21世紀のウィーンを恰も19世紀の世紀末ウィーンであるかのように訪れる日本人の多さに閉口しているとのこと。ウィーンの裏街を手を後ろに組んで、物憂げな表情を浮かべながらもの思いに沈んだ感じで歩く日本人が引きを切らないらしい、笑。
今のウィーンを見て欲しいらしい。
確かに、現在のウィーンが将来から振り返った時にあるエポックか歴史的潮流を生み出しつつあるのかを知るための探訪があってもいいかもしれません。
虫さん
《21世紀のウィーンを恰も19世紀の世紀末ウィーンであるかのように訪れる日本人の多さに閉口しているとのこと》
たしかに、そうかもしれません。
ウィーンには、IAEAという国際機関がある。
「国際原子力機関」ですね。
ロンドン駐在時代、IAEAの取材で出張しても古都に旅したという感じはありませんでした。
ウィーンは、ふつうに暮らしていればふつうの現代都市なのかもしれません。
むしろロンドンのほうが、歴史の地層が切り通しの崖のように見えているように思います。