今週の書物/
『ソ連が満洲に侵攻した夏』
半藤一利著、文春文庫、2002年刊
ロシアのウクライナ侵攻を見ていて、つくづく思うのは外交の難しさだ。独裁的な権力者がいったん軍事行動に出てしまうと、それを押しとどめるのは容易ではない。対話の場を設けても暖簾に腕押し。制裁で圧力をかければ、かえって逆襲に遭う。
とはいえ、相手が手を出す前なら、できることがいくつもある。目を凝らし、耳をそばだて、相手の動きを見定める。先方の面子にも気を配りながら、先回りして包囲網を張り、不穏な動きを封じる。これがうまくいけば、無用な戦争に引きずり込まれることはない。
ところが、戦前戦中の日本政府にはその能力がなかった。たとえば、ソ連軍が終戦直前に参戦するという事態は外交で防げたのではないか。今週も『ソ連が満洲に侵攻した夏』(半藤一利著、文春文庫、2002年刊)を読んで、そのことを考える。(*1、*2)
本題に入る前に、日本とソ連が戦争末期にどんな関係にあったかを押さえておこう。両国は日米開戦に先立つ1941年4月、ソ連の提案によって「日ソ中立条約」を結んだ。締約国の片方が第三国と戦争状態に陥ったとき、もう一方は中立の立場をとる、という内容だ。前年には日独伊三国同盟も締結されている。これによって、日本の立ち位置は定まった。独伊と組み、米英中などと向きあう、このときソ連には黙っていてもらう、という構図だ。
この交渉では見落とせない点がある。日本側は不可侵条約を望んだが、ソ連側が中立条約にとどめたということだ。ソ連は「日露戦争で失った地域の返還をともなわない不可侵条約」は国内世論が許さないとして、不可侵を取り決めるなら、そのまえに「南樺太と千島列島は、ロシアに返してもらいたい」と言い張ったという。気になるのは、このやりとりを日本政府がどれほど深く胸に刻んだか、ということだ。ソ連は本気だった。
というのも、この主張が1945年2月、クリミア半島のヤルタであった米英ソ首脳会談でも展開されるからだ。ソ連は対日参戦の条件として、戦勝時に南樺太と千島列島を手にすることを求めた。ヨシフ・スターリン首相は「私は日本がロシアから奪いとったものを、返してもらうことだけを願っている」と積年の思いを披瀝したという。この要求を、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領は「なんら問題はない」と受け入れた。
ヤルタ会談では、これが米英ソの「秘密協定」になった。ところが、この事実は日本政府のアンテナにまったくかからなかった。駐ソ日本大使がソ連外相に会談の内容を聞くと、「日本問題」は議論の対象にもならなかったという答えが返ってきた。
実はそのころ、日本政府はソ連に和平仲介の役回りを期待していた。駐日ソ連大使の日記によれば、大使は2月、日本の外務官僚の訪問を受け、「調停役」は「権威」と「威信」と「説得力」をもちあわせた「スターリン元帥以外にはない」と言われたという。
同じ2月に大本営トップの参謀総長が天皇に対して反米親ソの報告をした、という話も本書には出てくる。米国は対日戦で国体の破壊や国土の焦土化を遂げなければ満足しない。これに対し、「ソヴィエトは日本に好意を有している」。そんな言葉もあったという。
内大臣木戸幸一が3月に入って知人の一人に漏らしたという言葉も衝撃的だ。「共産主義と云うが、今日はそれほど恐ろしいものではないぞ」「結局、皇軍はロシアの共産主義と手をにぎることとなるのではないか」。木戸は、ソ連が仲介の見返りに共産主義者の入閣を求めれば応じてもよい、とすら言ったらしい。歴代政権はそれまで、治安維持法を振りかざして共産主義者を弾圧してきた。それを忘れたかのような身勝手な路線変更ではないか。
そんななかで4月、寝耳に水の情報がモスクワから届く。ソ連が日ソ中立条約の廃棄を通告してきたのだ。この条約は条文に照らせば片方から廃棄通告があっても1946年春まで有効なはずだったが、日ソ関係が不安定になったのは間違いなかった。
不思議なのは、日本政府がこれで反ソに転じるかと思いきや、逆の方向に針が振れたことだ。著者によれば、軍部にはソ連を「“敵”にしたくない」という思いが強かった。その結果、ソ連に水面下で終戦の仲介役を頼もうという流れはかえって強まったという。
1945年4~5月には、政府内で軍部対外相の論争があった。軍部は「ソ連の参戦防止のため対ソ工作を放胆かつ果敢に決行する」という方針を主張したが、東郷茂徳外相は「対ソ工作はもはや手遅れ」と抵抗した。一見、外交の責任者が外交努力を放棄したかのようにも見えるが、著者は「外相の判断は、今日の時点でみても非常に正確なもの」と評価する。軍部の愚はその後、どんな対ソ工作が構想されたかを見るとわかってくる。
政府は5月中旬、軍部の意向通り「ソ連に仲介を頼む」という決定をする。驚くのはこのとき、ソ連の労に対する「代償」をどうするかまで決めていたことだ。「南樺太の返還」「北満における諸鉄道の譲渡」「場合によりては千島北半を譲渡するもやむを得ざるべし」……といった具合だ。こちらが代償を先に用意すれば、ソ連は戦わずに得るものを得られる。結果として「戦争を回避するにちがいない」。これが「放胆かつ果敢」な工作だった。
6月、政府は元首相広田弘毅を引っ張りだして駐日ソ連大使と交渉させるが、ソ連側の反応は鈍い。7月には元首相近衛文麿を特使として訪ソさせることを決め、ソ連側に伝えた。ところが、スターリンは米英ソ首脳が敗戦国ドイツに集まるポツダム会談のことで頭がいっぱいだった。会談でも日本の申し出に触れ、こんなふうに語ったという。「特使の性格がはっきりしないと指摘して、一般的な、とりとめのない返事をしておきましょうか」
7月17日~8月2日のポツダム会談は、米英ソの駆け引きの場だった。米英は26日、日本に降伏を迫るポツダム宣言を中国蒋介石政権の同意を得て発表した。ソ連は、日本の対戦国ではないという理由で事前に知らされなかった。スターリンには焦りがあった。日本の降伏よりも早く参戦しなければ、ヤルタの「秘密協定」は水泡に帰す、戦後アジアの覇権も夢と消える――。こうして8月8日に宣戦を布告、9日、満洲に侵攻したのだ。
一連の流れをたどって痛感するのは、日本政府が国際情勢を自己中心の視点で解釈する一方、外交の力学に目をふさいでいたことだ。ソ連は1941年、たしかに日本と中立条約を結んだが、それは対独戦に集中したいなどの思惑があったからだろう。「日本に好意を有している」からとは思えない。そのことは、日本が不可侵条約を提案したときにソ連がこれを断固拒否したことからも明白だ。だが、日本政府はこの一点を見過ごしてしまった。
国際社会の先行きに対する読みも浅すぎる。米ソはドイツという共通の敵と戦ったからといって、仲良し二人組ではない。やがて競合関係になるのは必至だった。そんななか両国間では、ソ連の対日参戦と戦後の取り分が取引材料になっていた。日本政府は、これを嗅ぎとれなかった。諜報能力が乏しかっただけではない。自国の立ち位置を客体化してとらえ、それに対して世界の国々がどう動くかを理詰めで予測できなかったのである。
終戦の局面で、日本政府はいくつかの「誤断」を重ねている。一つは、降伏をめぐる「大誤断」だ。政府は、8月16日に全部隊へ停戦命令を出したことをもって「降伏は完成した」と思い込んだ、と著者はみる。だが、「降伏」の成立は9月2日の文書調印を待たなければならなかった。この間、戦地は無統制の状態に置かれた。ソ連軍が満洲を猛攻した背景には、そんな事情もあった。事前に、これを避ける手を打てなかったのか。
これに絡んでは、もう一つ「誤断」があった。8月17日ごろ、日本の外務省は在マニラのダクラス・マッカーサー連合国最高司令官に助けを求めている。満洲でソ連軍が攻撃をやめようとしないので「貴司令官においてソ側にたいし即時攻勢停止を要請せられんことを」――この要求も、的外れだった。米ソはポツダムでソ連軍の占領地域を取り決めており、その域内のことについては連合国最高司令官も口を出せないことになっていたからだ。
それにしても、である。日米開戦以来、日本政府は米国をとことん嫌い、ソ連に片思いしていた。ところが終戦前後、そのソ連から手ひどい仕打ちを受け、今度は米国にすがる。外交が下手なだけではない。節操もなさすぎる。半藤さんは、その史実も見逃していない。
*1 当欄2021年8月13日付「半藤史話、記者のいちばん長い日」
*2 当欄2022年7月29日付「『満洲』、人々は梯子を外された」
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月5日公開、通算638回
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