今週の書物/
『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』
川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊
古ポスター日焼けの美波里日にヤケて(寛太無)
先日の句会はオンライン形式で、お題――俳句では兼題という――が夏の季語「日焼」だった。上記は、このときの拙句だ。うれしいことに7人の方が選んでくださった。
自句自解――自分の句を自分で解説すること――は無闇にすべきではないが、今回は許していただこう。私の脳内では、この句に行き着くまでにいくつかの工程があった。思いつきがある。連想がある。思惑もある。それらを一つずつたどってみよう。
今、日焼けは負のイメージが強い。「UV(紫外線)カット」という言葉があるように悪者扱いされたりする。だが、昔は違った。真夏の街には、小麦色の肌があふれていた。夏も終わりに近づけば、どれだけ背中を焼いたかを競いあう若者たちもいた。
昔の価値観、即ち日焼けの正のイメージということで真っ先に思い浮かんだのは、あの資生堂ポスターだ。女優の前田美波里さんが水着姿で砂浜に寝そべり、上半身をもたげて顔をこちらに向けている。肌は美しい褐色。1966年に公開されたものだった。
そこでとりあえず心に決めたのは、中の句、即ち五七五の七に「日焼けの美波里」を置こうということだった。「日焼け」と「美波里」をつなげるだけで、あのポスターと1960年代の世相を読者は想起するだろう。半世紀余も前のことなので、世間一般には通じないかもしれない。だが、句会メンバーには同世代人が多いので、幾人かがビビッと反応してくれるに違いない。私の脳内には、そんな思惑が駆けめぐったのである。
これで、ポスターの記憶と1960年代の空気は読者(の一部)と分かちあえるだろう。次に画策したのは、日焼けをめぐる今昔の価値観を対照させること。そこで、ポスターの経年変化がひらめいた。古書のヤケに見られる紙の加齢現象はポスターにもある。美波里さんは正の日焼けをしているが、彼女が刷り込まれた紙は負の日ヤケをしている。紙のヤケそのものは劣化現象であっても、ヤケをもたらす時の経過はたまらなく愛おしい――。
そういえば、あのポスターは商店の壁などに長いこと貼られていた。現実にはありえないだろうが、今もはがされず壁に残っていたら……そんな空想をめぐらせて、下の句「日にヤケて」が決まった。以上が、日焼けの拙句を組み立てた脳内工程のあらましだ。
で、今週の1冊は『AI研究者と俳人――人はなぜ俳句を詠むのか』(川村秀憲、大塚凱著、dZERO社、2022年刊)。川村さんは1973年生まれ、人工知能(AI)の研究者で「AI一茶くん」開発チームを率いる北海道大学教授。大塚さんは1995年生まれ、2015年に石田波郷新人賞を受けた新進の俳人で俳句同人誌「ねじまわし」を発行している。本書は、AI一茶くんをよく知る二人が俳句とは何かという難問と向きあい、語りあっている。
ではなぜ、私が本書を手にとったのか? ここに前述の句会がかかわってくる。先達メンバーの脚本家、津川泉(俳号・水天)さんが「日焼けの美波里」を選句してくださったうえで、固有名詞を取り込んだ作句をどうみるかを講評欄の話題にしたのだ。
そこで引用されたのが本書だ。AIの俳句には固有名詞が多いこと、固有名詞の句は人間もつくりやすいことを踏まえて、著者の一人、大塚さんが「安易さと戦うのが書き手の責務と捉えれば、固有名詞の句には慎重であるべき」と戒めているという。
これは、ぜひとも読まねばなるまい。AIはどんな手順で俳句をつくるのか、それは私の脳内の工程とどこが同じで、どこが異なるのか。これらの疑問に対する答えがおぼろげにでも見えてくれば、AIがなぜ固有名詞句を得意とするかがわかるかもしれない――。
ということで本書に踏み入ると、驚くべき解説に出あった。AIは語意を知らずに作句するというのだ。たとえば、「林檎」の句をどう詠むか。AIは「林檎が赤いことも、食べられることも知りません」(川村)。過去の作品群を「教師データ」にして「『林檎』の次にどんなことばが来る可能性が高いのか」(同)を学習する。具体的には助詞「の」や動詞「咲く」などがありうるが、それぞれの頻度を調べて後続の語を決めていくらしい。
夢に見るただの西瓜と違ひなく(AI一茶くん)
本書に出てくる果物のAI俳句だ。「夢に見ている西瓜もまた西瓜である」(大塚)と読めるが、一茶くんはそんな至言を吐きながらスイカの甘さも量感も知らないらしい。当欄で先日学んだソシュール言語学でいえば、「シニフィエ(意味されるもの)が欠落した状態」(大塚)ということになる(当欄2022年7月8日付「ソシュールで構造主義再び」)。
AIには「俳句を詠みたいという動機がない」(川村)というのも目から鱗だ。AIは「人間の俳句を教師データとして使って」「賢いサイコロのようにことばをつないで」(同)、語列を俳句らしく整えているだけ。自句の「解釈」もできない。一語一語に意味が伴っていないのだから、文学的衝動とは無縁と言えよう。川村さんは、AI作句には「詠む」という動詞がなじまないので、「AI『で』」「生成する=つくる」と言うようにしているという。
となれば、AIが選句を苦手とするのは当然だ。川村さんによれば、「AI対人間」の俳句コンテストがあってもAIは出品する句を自分で選べない。AIに今できるのは「日本語として意味の通じない句」をつくったとき、それを作品から除外することくらいという。
ここで、AIがなぜ固有名詞の句を得意とするか、その答えを本書から探しておこう。川村さんの説明はこうだ。固有名詞は「意味するところが狭い」、だから「意味が通りやすい」――。AIは「教師データ」をもとに言葉をもっともらしく並べ、俳句を生成していく。このとき、日本語になっていない語列ははじかれるが、固有名詞があると排除されにくいということなのか。そういうものかと思う半面、反論してみたい気持ちもある。
西行の爪の長さや花野ゆく(AI一茶くん)
シャガールの恋の始まる夏帽子(同)
これらも、本書に例示されたAI俳句だ。冒頭の語がただの「僧」や「画家」ではなく「西行」や「シャガール」だからこそ、読み手の心に放浪や幻想のイメージが膨らむのではないか。固有名詞には「意味」の幅を広げる一面もあるように思えるのだが……。
固有名詞の効果を考えるうえで参考になるのは、著者二人が季語について語りあうくだりだ。季語は「共有知識」ととらえられている。川村さんによれば、ここで「共有知識」というとき、それは「相手が自分と同じことを知っているだけでなく、『相手が知っている』ということを知っている」状態を想定している。俳句の季語では、「本来の語意」のみならず「付随する周辺的な情報や心情」までが「共有知識」になるのだという。
具体例は、秋の季語「鰯雲」だ。大塚さんは、この言葉には「秋の爽やかさ」や「物思いを誘うような風情」といった気配がつきまとい、さらに「鰯の大群の比喩」にもなっているという。「季語の一つ一つに蓄積があり、連想がある」と強調する。
私見を述べれば、固有名詞にも同様のことが言えるのではないか。拙句の「美波里」という人名やそこから連想される1960年代の風景も「共有知識」だった、と言ってよい。
それにしても不思議なのは、AIが固有名詞入りの句を多くつくることだ。「周辺的な情報や心情」どころか「本来の語意」すら理解していないらしいのに、なぜそれを「共有知識」にできるのか。なにも知らず、「教師データ」に素直に従っているだけなのか。
本書には、俳句とAIについて考えさせられる論題がもっとある。俳句を情報工学の目で眺めると、初めて見えてくるものがあるのだ。次回も引きつづきこの本を。
☆引用箇所のルビは原則、省きました。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年8月19日公開、同日最終更新、通算640回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
<なにも知らず、「教師データ」に素直に従っているだけなのか>
尾関さんのこの名言にすべてのことが要約されている気がします。
俳句が「いまいち」なのは、北大や日本企業のAIが「いまいち」だからではないでしょうか。ずっとなにも考えず、先生や上司の言うことに素直に従ってきた人たちが、思考停止状態のなかで作ったAI。そんなAIに、創造的であることを求めること自体、無理があるような気がします。
海外に目を向けると、AIと文学の関わりが違って見えてくるから不思議です。AIを人間の未来の生活の一部として考えれば、まだ未熟なAIが成熟してゆき、AI文学と人間、そしてAI俳句と人間とのかかわりがどうなってゆくのかが、ぼんやりと見えてきます。
オックスフォード大学の「AI Shakespeare」と「AI Oscar Wilde」のディベートとなんていうのを見ると「うーん」とうなってしまいますし、AIシェア No1の中国の「18歳AI少女『小冰』」の作り出す「詩」は、もう「いまいち」というレベルではないように思えます。
なにが言いたいかというと、AIが良くなり続け、近い将来に想像を超えるようなことをするようになった時に(AIの作る料理が料理人が作る料理を凌ぐようになった時に)、AIと俳句の関わりが尾関さんに影響をもたらすのは間違いない。。。かもしれない。。。ということです。
アメリカの弁護士事務所の多くが判例検索や判決予想のためにAIを採用し雇っていたアシスタントを解雇したように、AIを創作活動のアシスタントにする作家が増えてくるのは間違いありません。その時、それを知ることも批判することも、誰にもできはしない。
AIは人間の生活に劇的な影響を与えるに違いありませんが、この変化はすぐには起きない。なので、現在AIに対して不安を抱えている人たちも、少しずつAIとの心地よいリズムを見つけていくのでしょう。気がつけば、文学全体にAIが入り込んでしまっている。そんな日が来るに違いありません。
その時、AIの文学活動に対しては、さまざまな価値判断がでてくるでしょう。
AIの作品は劣っていて荒削りであると決めつけ、アルゴリズムによる創作は、文学の高貴な意味合いを傷つけると考える人たちもいるでしょう。
反対に、AIに面倒くさい時間のかかる作業をさせ、稼ぎまくる流行作家も出て来るに違いありません。
問題は、誰がどのようにAIを利用しているかが見えてこないところにあります。AIに殆どの作業を委ねている流行作家が「私は書くのが大好きで。。。AIを使うなんて想像もできません」と言えば、誰もがそれを信じる。そんな状況は、誰の手にも負えないでしょうね。
俳句とか詩とかの持つ曖昧さとか、評者や読者の寛容さとかは、AIの得意分野ではないように思えますが、そういったことにAIがどのように対処していくかは見ものですね。
AI俳句がどのような境地に到達していくのか、AIを手にした尾関さんがどのような俳句を詠むのか、とても楽しみです。
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P.S. 前田美波里の資生堂のポスターは、確かに迫力ありましたね。でも私はなぜかアグネス・ラムのポスターに、より惹かれました。
そうはいっても
古ポスターアグネスラムが日にヤケて
なんていう句は
古ポスター日焼けの美波里日にヤケて
に比べると何か足りない気がする。
うーん。。。
そうそう、マリア・オライリーなんていう日に焼けたモデルもいました。懐かしいです。
38さん
最初にことわっておくと、本書に出てくるAI俳句は決して「いまいち」ではありません。
なかなかうまい。
含蓄もある。
私が驚いたのは、AIが言葉の意味も知らずに、こんなに俳句らしい俳句を「生成」したことです。
それは、「教師データ」に従ったためなのか、たくさんつくって佳作だけを選びとったということなのか――そこらあたりは即断できませんが、なんらかのトリックがあるようには思います。
同様のことは海外のAI文学にもあるのではないか、と私は推察するのですが、どうなのでしょうか。
もしそうなら、意味が空洞化したまま、文学がどんどん量産されていく――大変な時代が来たことになりますね。