今週の書物/
『不思議な国の原子力――日本の現状』
河合武著、角川新書、1961年刊
3・11から、もう10年になる。あの災厄が衝撃的だったのは、それが大地震と大津波で終わらなかったことだ。自然災害を引きがねに原子力発電所という巨大な人工物が崩壊して、放射能という見えない脅威を広くまき散らした。科学技術の奢りが露呈したのである。
当時、よく耳にしたのが「想定外だった」という言いわけだ。たしかに、地震→津波→電源喪失→炉心溶融という流れ図が頭の片隅にでもあった人は、そう多くない。だが関係者の間では、津波の危険が震災前から議論されていたようだ。たとえ、3・11の津波が予想の範囲を超える高さだったとしても、その想定外を想定する慎重さは求められていたと言えないか。どうみても「想定外」は弁解として弱すぎる。私には、そう思われる。
それは、原子力技術に人類未体験の側面があるからだ。火事ならば、放水によって消せる。火は、炭素や水素などが酸素と化合する反応であり、それは水をかければ鎮まる。では、原子炉内の原子核反応はどうか。世の中では「原子の火」「太陽の火」「第三の火」などと言われている――メディアがこういう表現に飛びついたことに問題があったと私は自省している――が、その本質は火事場の火とはまったく異なるものだ。
原子核は、湯川秀樹の中間子論によって理論づけられた核力が支配的な世界だ。陽子や中性子がバラバラにならないのは、この力が強いからにほかならない。重力と電磁力しか知らないでいた人類には不慣れな相手なのだ。想像力の及ばないことがあって当然だろう。
で、今週選んだのは、『不思議な国の原子力――日本の現状』(河合武著、角川新書、1961年刊)。60年前の本だが、私は近所の古書店で手に入れることができた。略歴欄によると、著者は1926年生まれ、毎日新聞科学部で原子力取材をしてきた人だという。私にとっては科学記者の大先輩ということになるが、不勉強にしてお名前を存じあげなかった。あとがきには「この本は、私の七年間の原子力報道のノートをもとにまとめたもの」とある。
著者は、1950年代半ばに始まる日本の原子力開発史を記者の視点から書き綴っている。1954年に初の原子力予算がついたこと、1956年に原子力委員会が設けられたこと、そのころ、原子炉の選定をめぐって内には政界や業界に主導権争いがあり、外には米国や英国の企業の商戦もあったこと……こうした話が次々に出てくる。ただ今回は、それらを論じない。原子力開発の黎明期に事故の想定があったのかどうかを見てみることにする。
第三章「忘れられた立地条件」冒頭に1960年ごろ、科学技術庁が官庁街で引っ越しをしたときの様子が描かれている。科技庁は1956年、原子力委発足の年に生まれたが、当初は首相官邸近くの木造2階建て庁舎にあった。それが、文部省のビルに移ったのだ。大量の書類が廃棄されるなか、しっかり梱包、運搬されたものの一つに「大型原子力発電所の事故の理論的可能性と公衆損害の試算」があった。ガリ版刷りだが、マル秘文書だったという。
これは、原発事故の被害規模が初めて公式にはじき出されたものだ。科技庁原子力局は、この作業を産業界がつくる日本原子力産業会議に委託した。1959年のことらしい。当時の政府は、原発の「安全」をうたいあげる一方、「事故の理論的可能性」にも目を向けて「損害」の大きさを見積もっていたのだ。最悪の事態を想定外と言って無視しなかったのは間違っていない。ただ腑に落ちないのは、その試算がマル秘とされたことである。
この本によると、原産会議はこの試算について、自らが発行する新聞で「委託調査完了」「原子力局へ正式提出」と広報した。そんなこともあってか、国会では野党の社会党議員が「再三にわたって調査結果の提出を要求した」。だが、政府は「影響が微妙……」などの理由で公表しなかったという。せっかく手にした情報の「影響」力をそいでしまう。「税金を使った調査の結果を発表しないとは、まことにおかしな話である」と著者はあきれる。
著者は、調査にかかわった専門家に直接取材したようだ。その人は匿名で、被害規模の試算値が場合によっては3兆数千億円にものぼる、などと打ち明けた。「原子力局も弱ったんでしょうねェ」と言い添えて……。当時、この額は国の一般会計予算の2倍ほどだった。
ここから先は本の中身から離れるが、この一件には後日談がある。驚くべきことに、試算の文書が1999年になって公開されたのだ。実に、作成から40年の歳月が流れていた。外交交渉などの公文書が期間を置いて開示されることは珍しくない。だが、原子力という新技術を国のエネルギー政策の柱にするかしないかという局面で、有権者の判断に欠かせない判断材料を隠してしまうとは――。なんのための試算だったのか、私もあきれる。
その公開文書は、今では国会図書館に保管されている。表題は「大型原子炉の事故の理論的可能性及び公衆損害額に関する試算」(国会図書館のウェブサイト)。河合本、すなわち『不思議な国…』にある文書名とは微妙に違うが、同一のものとみてよいだろう。
この試算結果は今、ネットから知ることもできる。京都大学の研究者だった今中哲二さんが文書を要約して『軍縮問題資料』誌(1999年5月号)に載せたものが、京大複合原子力科学研究所(旧原子炉実験所)のウェブサイトでも読めるからだ。
さきほど、河合本では原発事故の被害規模として3兆数千億円という数字が書かれていることを紹介した。これを指すとみられる損害試算は、実際の文書にも明記されている。今中要約によれば、放射性物質の粒子の大小などの放出条件や、雨降りかどうかなどの気象条件を15通りに分けて、人的損害と物的損害の合計額をはじいたところ、最大となったのが3兆7300億円だったのだ。河合記者の取材は、的を外してはいなかった。
ただ、注釈を加えると、河合本と実際の文書には食い違いもある。今中要約によれば、3兆7300億円の試算は事故原発から放出される放射能量が「1000万キュリー」(1キュリーは370億ベクレル)の場合だ。これは日本原子力発電東海発電所(1966年営業運転開始)に導入予定の原子炉を念頭に、炉内放射能の2%が飛び散ると仮定している。ところが河合本では、専門家が3兆数千億円は放射能の1%が出たときの話だと言っている――。
私は今、この数字のずれをあげつらうつもりはない。強調したいのは、政府が試算を手に入れながらそれを公にしなかったことの罪深さだ。その結果、新聞記者が嗅ぎとった文書の片鱗がこぼれ出るだけで、さまざまな筋書きを想定した事故全体の定量化は、なんの役にも立たなかった。この試算は原発推進の産業界主導で進められたものであり、批判的な検証が欠かせないが、それもできなかった。これこそは、情報操作の最たるものではないか。
今中要約の記述によると、この文書の「概要」は1973年ごろから世間に漏れだした。その後、今中さん自身も「表紙に『持出厳禁』と書かれた原産報告のコピー」を手にしたという。ウィキペディアにもこの試算の項目があり、文書開示のいきさつが詳述されている。文書について一部で報道されることはあっても、政府は1999年まで公式には認めなかったという(2019年11月24日最終更新)。あきれる、を超えて、あきれかえる話だ。
「大型原子炉の事故」が社会にどれほどの大打撃を与えるか。その重大さが世の中に示されていたら、日本列島にこれほど多くの原発は建設されなかっただろう。福島の3・11事故も起こらなかったかもしれない。事故被害を想定内に入れながら、その想定をなかったことにする愚。試算の全容を掘り起こさなかった私たちメディアにも大きな責任がある。ただ、河合記者はいち早く情報操作のうさん臭さに気づいた。その先見性に敬意を表したい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月5日公開、通算564回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
私は「想定外」という言葉自体が問題を含んでいると考えています。人々が「想定外」と言う時、その想定の根拠となる基準は何でしょうか?
その基準とは、実は、「経験」だろうと考えています。どんなに科学的に緻密で客観的な数値が結論として出されても、その数値の意味するところを実世界を舞台として想像する必要があります。
その時、その数値の意味する姿を示されても、その姿が「経験」をはるかに超えている時、無意識であるかもしれませんが、容易に現実としての「想定」として自分の中に定着させることは出来ないでしょう。
数値の示す「想定」と「経験」に支配された「想定」。この違いを切り分けることなく「想定外」であったか否かと議論しても実りある議論にはならないのでは、と考えています。
(前コメントの続き)
客観性のある「想定」がどうしたら経験に支配された「想定」を打ち破れるのか、方法論が見つかりません。
何か、「風化させない」という議論を聞いている時のような虚しさを感じます。
虫さん
難しい問題ですね。
「想定」とは、なにかを数値実験(シミュレーション)するとき、変数の値がどのくらいの範囲に収まるか、を見極めることですね。
これが難しい。
変数には、値のばらつきがガウス分布のようになっていて、グラフにすると両側に長い尻尾が延びているものが少なくない。
だから、そもそも「想定外」はありえないのかもしれません。
それを、あるところで見切って、えいやっと範囲を決めるわけですが、その拠りどころになるのは、おっしゃる通り「経験」だけなのでしょう。
ところが、天災は人間の尺度を超えた時間幅で繰り返すから、私たちの経験は乏しい。
一方、原発は歴史の浅い技術だから、これも経験に頼れない。
そう考えると、天災多発国で原発を動かすには「想定内」を限りなく広くとらなければならないように思われてきます。
尾関さん、
河合武さんの『不思議な国の原子力――日本の現状』を紹介して下さって、ありがとうございます。とても興味深いですが、アマゾンに行ってみたらとても買える値段でなく、いつか図書館で探して読んでみたいと思います。
想定外。難しい問題ですね。ただ、想定外にもいろいろあって、少し整理する必要があると思います。いくつもの違った「想定外」を挙げる人もいますが、ここではわかりやすい3つを挙げてみます。
① 想像できなかったという「想定外」
まったく想定しなかった「想定外」です。「影響が敷地外に及んだ場合の防災」とか「海外での反応が日本に及ぼす影響」などを想定した人はいなかったように思います。
② 想像はできたけれど想定していなかったという「想定外」
想定はしたのだけれど、対策を深く考えるには至っていなかったという「想定外」です。「重大事故時の対応力の不十分さ」とか「作業員確保」それに「放射線廃棄物処分」など、いろいろ浮かんできます。
③ 安全対策を考える上で想定しないことにした「想定外」
想定はできたけれど対策のための費用があまりにも高額だったため考えないことにして、発生した場合には許容するしか仕方ないとした「想定外」です。「自然災害に対応する設計基準の低さ」などが、これに当たります。
土木学会会長のような要職にある人が「安全に対して想定外はない」などと言うけれど、「想定外はない」などということはあり得ないと思います。想定外はあるのです。①も②も③もです。みんなあります。
原子力発電所に限らず、どんな仕事にもリスクマネージメントは重要で、そこでは「金額」という要素がとても重要になります。「想定内」を限りなく広くとれば、金額は限りなく大きくなるとおもうのですが。。。
銀行のATMが止まったといって「責任を問う」だとか「謝罪」だとか大騒ぎしますが、人が死ぬわけではないのだから止まればいいし、止めればいいのだという考え方もあります。問題は止まるかどうかではなく、1日止まるのか、1時間止まるのか、1分止まるのかということで、どのくらい止まっていいのかによって対策にかかるカネが違ってくるのです。99%の確率で動くものを99.9%の動くものにしようとすると、対策にかかるカネは10倍になり、99.99%にすれば100倍に、99.999%にすれば1000倍になります。そんな状況では誰も99.999%なんていうものは求めようとしないで「うーん、だったら99.9%ぐらいにしておくか。止まったら私が責任を取るからさ」なんていう会話がされるのです。
電車が遅れたといって半日送れるのか、1時間遅れるのか、1分遅れるのか、1秒遅れるのか。そんなことも対策にかかるカネがものをいいます。
何がいいたいかというと、日本の社会は他人のミスに不寛容すぎるということです。海外でATMが止まるのはあたりまえ、カードを食べられるなんてあたりまえ。それなのに日本ではニュースになる。そのギャップはとても大きいです。海外で電車が遅れるのはあたりまえ。定刻に到着したらビックリなのです。遅れたといって謝るのもたぶん日本だけ。とにかく謝りすぎだと思います。3人並んで頭を下げるあの不思議な光景は異常としかいえません。
謝るのでなく、リスクマネージメントをマジメにやることが、大事なのではないでしょうか。で、リスクマネージメントで手に負えない場合には、手を引く。「やらない」という選択をするわけです。原子力発電所はリスクマネージメントで手に負えないから、もうやめる。リスクマネージメントをまじめにやれば、そういう結論になります。
NHKの世論調査の結果がどうだったかではなく、どの政党の意見がどうだからでもなく、「けしからん」とか「こうあるべき」でもないアプローチが、つまり「リスクマネージメントをマジメにやる」というアプローチが必要なのではないかと思うのですが、どうでしょうか?
日本の組織では、お偉いさんを説得し、リスクに備えるとかセキュリティーのためとかいう予算を取るのはとても難しいと聞きます。東電のような巨大な組織では特に難しいらしい。日本の企業のリスクやセキュリティーの予算が隣国の企業に比べ20分の1だというデータもあります。まずはその辺から変えなければならないと思いますが、まあそれは無理でしょうね。
なんだか、日本の社会全体が、基本的なところで間違っている気がするのですが、海外が長すぎてズレているのでしょうかね?
38さん
《何がいいたいかというと、日本の社会は他人のミスに不寛容すぎるということです。海外でATMが止まるのはあたりまえ、カードを食べられるなんてあたりまえ。それなのに日本ではニュースになる。そのギャップはとても大きいです。海外で電車が遅れるのはあたりまえ》
まったく同感、鉄道事業者が運行ダイヤとの20秒のズレで謝罪したときは、いささか愕然としました(論座2018年1月1日付拙稿「20秒早発でなぜ謝る? エラーバー社会の勧め」)。
《謝るのでなく、リスクマネージメントをマジメにやることが、大事なのではないでしょうか。で、リスクマネージメントで手に負えない場合には、手を引く。「やらない」という選択をするわけです。原子力発電所はリスクマネージメントで手に負えないから、もうやめる。リスクマネージメントをまじめにやれば、そういう結論になります》
リスクマネージメントで手に負えない――事故原発10年後の風景を見ると、そのことを実感しますね。