いまなぜ、資本主義にノーなのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

成長

のっぺりした街になってしまったなあ、と思う。私が住んでいる辺りのどの通りがどうというわけではないのだが、なべて商店街はのっぺりしてしまった。

のっぺりとは、平らなさまを言う。ただ私はここで、荷風やタモリ、あるいは『武蔵野夫人』の大岡昇平のように地形の起伏にこだわっているわけではない(「本読み by chance」2019年2月1日付「東京に江戸を重ねる荷風ブラタモリ」、当欄2021年4月23日付「武蔵野夫人、崖線という危うさ」、当欄2021年4月30日付「武蔵野夫人というハケの心理学」)。そうではなくて、沿道が単調になったことを嘆いているのだ。

数十年も続いた老舗の和菓子屋、ひと癖ありそうな店主のいる古書店などが次々と消えていく。代わって現れるのは、たいていがフランチャイズか、それに似た店々。いつのまにか、コンビニ→ファストフード→スマホショップのような並びができあがっている。

コンビニ→ファストフード……のような配列が目立つのは、一つや二つの街に限った話ではない。いまや、どこの街にもある定番の風景になっている。だから、のっぺりは一つの商店街を形容する言葉にとどまらない。日本社会そのものがのっぺりしてきたのだ。

科学用語では、こうした変化をエントロピーが増大するという。熱い湯1瓶と冷たい水1瓶を混ぜると2瓶分のぬるま湯ができる、というような法則だ。熱湯と冷水が1瓶ずつという状態には、瓶1本ずつの個性がある。ところがぬるま湯2瓶分となれば個性がない。のっぺりしているわけだ。Aという町の酒屋もBという町の乾物屋もCという流通大資本のコンビニ店になる。無個性の増大、これはエントロピーの増大にほかならない。

ここで思いだすのが、子どものころに社会科で教わった社会主義国の政治経済体制だ。福祉の水準は高いが、都市も農村も国営企業や集団農場でひと色に染まっているという。私たちの世代は社会主義に憧れつつも、その単色の世界にはついていけないと思ったものだ。大きなエントロピーに対する嫌悪である。資本主義はイヤだが、それが保証する自由は失いたくない――そう思う若者が多かった。かく言う私も、その一人だった。

ところがどうだろう。今は、資本主義こそが世界をひと色に染めているではないか。大きな資本が小さな資本を吸い込み、国境を越えて人々を同じ市場に囲い込む。これではまるで、エントロピー増大の牽引車だ。これまで私たちは、資本主義は人々の個性を重んじる、と信じてきた。新自由主義が民間活力に期待を寄せたのも、この通念があったからだ。だがそれは、どうも嘘っぽい。もう一度、資本主義を問い直したほうがよい。

で、今週は『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年9月刊)。「新書大賞2021」に選ばれるなど、話題の本である。著者は1987年生まれ、ベルリンのフンボルト大学などで哲学を学び、今は大阪市立大学大学院で准教授を務めている。専門は経済思想、社会思想。前著『大洪水の前に』(邦題、堀之内出版、2019年刊)はカール・マルクス(1818~1883)の「エコ社会主義」を論じた本で、数カ国で出版されている。

書名にある「人新世」は、近年よく耳にする新語だ。地質学の用語に倣って「人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代」(本書「はじめに」から)を指している。このことからもわかるように、著者は、気候変動という今日的な切り口で資本主義の矛盾をあばき、マルクスの文献を精読して、そこに解決の糸口を見いだしている。さらに言えば、本書の刊行直前に勃発したコロナ禍も、この文脈のなかで論じている。

著者は本書で、マルクス自身の思想を3段階に分けている。①「生産力至上主義」(1840~1850年代)→②「エコ社会主義」(1860年代)→③「脱成長コミュニズム」(1870~1880年代)という進化があったとみているのだ。持続可能性の重視は①にないが、②③にはある。経済成長の追求は①②にあるが、③にはない。代表的な著作をこの区分に当てはめると、『共産党宣言』は①期に、『資本論第1巻』は②期にそれぞれ刊行されている。

著者によれば、マルクスは②期の『資本論』第1巻で、人は「自然に働きかけ、さまざまなものを摂取し、排出するという絶えざる循環の過程」を生きている、という人間観を提示した。そこには「人間と自然の物質代謝」がある。この代謝は、資本主義によって価値の増殖を最大化するように変えられてしまう。「資本主義は物質代謝に『修復不可能な亀裂』を生み出すことになる」――『資本論』は、そんな警鐘を鳴らしているのだという。

だが、この主張は従来のマルクス主義解釈では脇役だった。それは、自然環境の破壊が旧社会主義国で顕著だったことを見ればわかる。たとえば、旧ソ連は5カ年計画を掲げて経済成長をめざした。成長の原動力を市場ではなく、計画経済に求めようとしたところだけが資本主義国と異なる。だから、その生産活動の一部は資本主義国と同様に公害をまき散らしたのである。ただそれでも、②期のエコロジーは知る人ぞ知る話ではあった。

本書が光を当てるのは、これまで知られていなかった③期の思想だ。著者によると、いま世界のマルクス学究の間では『マルクス・エンゲルス全集』の新版刊行を企てるMEGA計画(MEGAは「マルクス」「エンゲルス」「全集」を独語表記したときの頭文字)が進行中で、著者もそれに参加している。新版に収められる草稿、ノート類に「今まで埋もれていた晩期マルクスのエコロジカルな資本主義批判」があった、という。

MEGA研究によって明らかになったマルクス晩年のエコロジー探究には目を見張る。なによりも驚かされるのは、自然科学が視野のど真ん中にあることだ。「地質学、植物学、化学、鉱物学などについての膨大な研究ノートが残っている」という。「過剰な森林伐採」による気候変化や、石炭などの埋蔵資源を乏しくする「化石燃料の乱費」、開発行為が生物を脅かす「種の絶滅」などについて書物を読み漁り、理解を深めていたらしい。

マルクスは、そこから「脱成長コミュニズム」と呼べる思想を構築していくのだが、その中身に入る前に、いま2020年代の世界がどんな状況にあるかをみておこう。本書も、現代の資本主義が地球の生態系(エコシステム)をどのように乱しているかを詳述している。

最初のキーワードは「グローバル・サウス」だ。その意味は南北問題の南、即ち途上国とほぼ重なるが、もう少し幅広くとらえて「グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民」のことをいう。逆を言えば、私たちはグローバル・ノースに属する。著者は「グローバル・ノースにおける大量生産・大量消費型の社会」が「グローバル・サウスからの労働力の搾取と自然資源の収奪なしに…(中略)…不可能」であることを指摘する。

具体例が挙げられている。たとえば、ファストファッションの衣料品だ。原料の綿花栽培を担うのは「インドの貧しい農民」だ。「四〇℃の酷暑のなかで作業を行う」だけでなく、1年ごとに「遺伝子組み換え品種の種子と化学肥料、除草剤」を買わされるという負担もある。工程の川下には「劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者たち」もいる。2013年には、複数の縫製工場が同居するビルが崩壊して千を超える人命が奪われる事故があった。

グローバル・サウスが収奪される自然資源には「環境」も含まれる。この本には、加工食品やファストフードに多用されるパーム油の話が出てくる。アブラヤシの実から採れる油である。産地のインドネシアやマレーシアでは、アブラヤシの農園づくりのために熱帯雨林が伐採された結果、生態系が壊され、土壌が削られ、川も農薬などに汚染されて魚が減っているという。地産地消の暮らしが壊滅状態に陥ってしまったのだ。

このくだりには、もう一つ「外部化」というキーワードもある。グローバル・ノースが「豊かさ」の「代償」をグローバル・サウスに「転嫁」してしまうことだ。「外部化」には怖い一面がある。ノースの人々は「代償」をサウスへ追いやることで、その現実を見ないで済む。「代償」の「不可視化」である。こうしたノースのありようを、ドイツの社会学者シュテファン・レーセニッヒは「外部化社会」と名づけ、批判的に論じているという。

人新世とは、その転嫁が極まって「外部が消尽した時代」というのが、この本の見方だ。「資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限」である。だから、「外部を使いつくすと」「危機が始まる」。それがもっとも極端に表れたのが気候変動だ、というのだ。

これには、補足が必要だろう。二酸化炭素(CO₂)の温室効果による地球温暖化では、グローバル・ノースが化石燃料を燃やしてCO₂を吐きだすことが即、グローバル・サウスからの収奪とは言えない。なぜなら、温暖化は地球全域に及ぶからだ。ただ私なりに考察すれば、こうは言える。ノースの人々は化石燃料の燃焼によって恩恵も受けている。これに対して、サウスの人々は温暖化の負荷ばかりを押しつけられる。だから、転嫁なのだ。

ところが最近は、グローバル・ノースの人々にも気候変動の被害が「可視化」されてきた。著者が言うようにスーパー台風などが気候変動の表れだとすれば、ノースにも「代償」が見えてきたのだ。「外部化」という現代資本主義の仕掛けが行き詰まったと言ってよい。

このくだりは、この本の最大の読みどころだ。今風の資本主義批判の核心と言ってよい。理系の目で見れば「地球は有限」は自明のことだ。ところが資本主義は、そこに「運用ごとに生まれる貨幣は多くなり……」(ベンジャミン・フランクリン、当欄2021年4月9日付「ヴェーバー資本主義の精神はどこへ」)という無限増殖を期待した。私たちは「外部化」の破綻で起こる災厄の予感のなかで、有限に無限を求めることの愚にようやく気づいたのだ。

「脱成長コミュニズム」に立ち入る前に紙幅が尽きた。来週も引きつづき、本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月7日公開、同月11日更新、通算573回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

6 Replies to “いまなぜ、資本主義にノーなのか”

  1. 尾関さん、

    本屋に積んであるのを見ても、新聞で紹介されているのを見ても、知り合いからリンクが送られてきても、なぜか絶対に買わないと思っていた『人新世の「資本論」』。それが、尾関さんの「いまなぜ、資本主義にノーなのか」を読んで、早速本を注文してしまったのですから、なんといい加減な「絶対に買わない」だったのか。

    いや、それくらい、尾関さんのこの本の紹介は良かったです。本が届いたら、Stephan Lessenich が言いたかった「グローバル・ノースの先進資本主義経済の社会経済的発展のモデルは持続可能ではない」というメッセージがこの若い著者にちゃんと伝わっているかどうかを確かめてみたいと思います。尾関さんの文章を読む限り「外部化社会」の現実だけはうまく伝わっているみたいですが。。。

    この本を読むのと、尾関さんの二回目の紹介とを、心から待ち望んでいます。本を読む前の私の印象は、若いこの著者が、現在のドイツやフランスの流行りの言論を、自分の意見として書いているというものでしたが、どうやらそれ以上のものがありそうですね。

    いい紹介を、ありがとうございました。

    1. 38さん
      《どうやらそれ以上のものがありそうですね》
      それ以上のものはあるように思います。
      ただ、そこに「答え」があるのかどうか?
      38さんの読後の見解をぜひお聞きしたいです。

  2. 尾関さん

    面白く拝読致しました。
    まず内容以前の関心として、この著者は「現にいま存在している」複雑な世界、国家、あるいは社会を、主張するような世界へと変換していく「具体的で実行可能性のある方策」を著作の中で示しておりますか?

    1. 虫さん
      良いタイミングでご質問をいただきました。
      それに対する答えの一端とも言える感想を、きょう(2021年5月14日)公開した続編に書いています。

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