宇宙の最期か自分の最期か

今週の書物/
『宇宙の終わりに何が起こるのか』
ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊

暦果つ

今秋、友人から1冊の本を贈られた。今どきのことだから、ネット通販大手から直接、拙宅に届けられた。ありがたいことだ。厚意に応えて、この本のことを語りたい。そう思って感想を書いていた。暮れも押し詰まった今年最後の日、その拙稿を公開しよう。

それは奇しくも、宇宙の最期を考える科学本だった。物理学には宇宙論という分野があり、宇宙の起源はだいぶわかっている。20世紀半ばは、宇宙は無限の昔からずっと在りつづけているという定常宇宙論と、宇宙は天地創造の大爆発で始まったとするビッグバン宇宙論が対立していたが、1960年代半ばに大爆発(ビッグバン)の名残が見つかり、後者が定説となった。宇宙には始まりの一瞬があるという見方が定着したのである。

1980年代初めには、さらに進展があった。天地創造のとき、大爆発に先だって宇宙が指数関数的に急膨張したという説が出てきたのだ。インフレーション宇宙論と呼ばれる。これについても、その直接証拠を見つけ出そうという研究が今まさに進んでいる。

宇宙は、始まりについてはかなりくわしくわかってきた。そこで気になるのは、ではどう終わるのか、ということだ。好奇心の自然な流れと言えよう。ただここで、私の心には悪魔のささやきが聞こえてくる――。宇宙の終わりなど、自分にどれほど意味があるのか。宇宙が終わるより早く私自身が終わっている。その確率は限りなく100%に近い。ならば、こう言ったほうがしっくりくる。私が終わるとき、私の宇宙も終わるのだ、と。

で、友人から本を貰った話に立ち返る。友人が新刊書籍をわざわざ買い求め、それを私に届けさせたことには隠された意味があるのだろう。友人も私も、すでに高齢者の域にある。それなのに科学本を、これまでのように知的好奇心を満たすためだけに読んでいてよいわけはない。宇宙をめぐる最新の知見を自身の現在と突きあわせて考察してみてはどうか――そう促されたような気がしたのだ。これもまた、悪魔のささやきに違いない。

その本とは『宇宙の終わりに何が起こるのか』(ケイティ・マック著、吉田三知世訳、講談社、2021年9月刊、原著は2020年刊)。著者は、ブラックホールなどの理論研究を専門とする米国の物理学者。2009年に米国で博士号を取得、英国、オーストラリアでも研究生活を送った。刊行時の肩書は、ノースカロライナ州立大学助教とある。科学の語り部としての活動に熱心で、『サイエンティフィック・アメリカン』誌などに寄稿している。

この本は序盤、宇宙物理のおさらいを済ませた後、第3章から本題に入る。宇宙の「終末シナリオ」を五つ選んで、一つずつ詳しく紹介している。それらを章題通りに並べれば、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」「真空崩壊」「ビッグバウンス」である。

「ビッグクランチ」のクランチ(crunch)には破砕の意がある。潰れるということだ。この筋書きでは、宇宙が現在進行中の膨張をいつかやめ、収縮に転じた後、崩壊する。二つめ「熱的死」では、宇宙が膨張しながら「徐々に空っぽになり、暗くなっていく」。その結果、最後は「時間の矢」が事実上消滅するという。三つめ「ビッグリップ」のリップ(rip)は、引き裂くこと。これだと、宇宙は膨張の末に「自らズタズタに千切れていく」。

以上三つの筋書きでは、宇宙の膨張がこの先も続くのかどうか、が密接にかかわっている。カギを握るのは、宇宙を外方向へ膨ませるしくみだ。それらしきものとして、私たちが最近よく耳にする用語は三つ。「宇宙定数」「真空のエネルギー」「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」である。これらは同じものを指しているように見えて、実はそうではない。それぞれ由来が違うのだ。この本の記述に沿って、話を整理しておこう。

宇宙定数は1917年、アルバート・アインシュタインが発案した。アインシュタインは前年、一般相対論の方程式で宇宙の重力場を表現したが、それだけでは重力による収縮で宇宙が潰れてしまう。当時優勢の定常宇宙論を満たすためには、収縮作用を打ち消す仕掛けが必要だった。それで方程式に「空間を引き伸ばす」項をつけ加えたのだ。その項の係数が宇宙定数だ。これで「空間のすべての小片が反発エネルギーをもっている」ことになった。

宇宙定数はその後、いったんお役御免になる。膨張宇宙論が定常宇宙論にとって代わったからだ。宇宙膨張が最初の一撃の惰性で続いているなら、反発エネルギーの供給は不要になる。ところが1998年、膨張の「加速」が観測され、この定数は息を吹き返したのである。

では、真空のエネルギーとは何か。こちらは「からっぽの空間がもつエネルギー」を意味する。量子論によれば、真空にも場の基底状態があり、エネルギーがゼロとは言えない。このエネルギーが「宇宙定数をもたらしている」と考えてよいなら「最も自然」な説明になる、と著者もみる。だが、そうは問屋が卸さない。宇宙では真空のエネルギーの理論値が、宇宙の加速膨張の観測から得られるエネルギー値より120桁も大きいのだ。

120桁の違いを説明する妙案は見つかっていない。宇宙定数イコール真空のエネルギーかどうかの答えは宙に浮いている。さらに宇宙定数が本当に定数で、いつでもどこでも一定かどうかも不確かだ。だから、この本ではこんな記述に出あう。「宇宙の膨張を加速させられる仮説上の現象は、すべてひっくるめて『ダークエネルギー』と総称する」(原文では太字箇所に傍点)。それは加速膨張の原因という役割に注目する概念で、実体は謎のままだ。

前述した筋書きをダークエネルギーに引き寄せてみよう。「ビッグクランチ」では、重力による収縮がダークエネルギーによる加速膨張に勝る。逆に「熱的死」と「ビッグリップ」では重力が負けるので、それらは「ダークエネルギーによってもたらされる終末」だ。

そうなると、宇宙に重力源の物質がどれほどあり、ダークエネルギーの量がどのくらいかが気になるが、それがはっきりしない。最近の科学記事には、ダークエネルギーが宇宙の全物質・エネルギーの7割ほどを占めるという知見がよく出てくるが、この本はそのことにも踏み込んでいない。ダークエネルギーは「時間の経過にともなって変化しうる」というから、現時点の成分比にこだわってもしようがないのかもしれない……。

要は、ダークエネルギーはわかっていないことばかりということだ。だから、「ビッグクランチ」「熱的死」「ビッグリップ」については、どの筋書きが有力かを言うのは早すぎる。まずは、科学者にダークエネルギーが何かを見定めてもらおうではないか。

筋書き4番目の「真空崩壊」と5番目の「ビッグバウンス」は、理論先行で観測の手が届かないところにあるようなので、吟味はいっそう難しい。だから当欄は、この二つには立ち入らない。ただ「真空崩壊」が私の心をとらえたことだけは強調しておこう。

「真空崩壊」が凄いのは、それが遠い未来の話ではないことだ。この瞬間の出来事であっても不思議はないという。発端は「真の真空」の「泡」が出現すること。泡は膨らみ、広がり、可能な限りの宇宙を「取り消してしまう」。そこに私たちがいれば、のみ込まれてしまうだろう。これは、宇宙が量子論のトンネル効果によって「偽の真空」状態から「真の真空」状態へ移ることを意味する。確率論でそんなことも起こるという話だ。

著者は、こう脅かしておいて、それは「あなたが心配すべきことがらではない」と断ずる。崩壊が起こったら「止める手段がない」。起こる気配があっても、それを「知りえない」。もし、身に降りかかっても「痛くはなさそう」。消滅させられたときは「悲しむ人も、同時にいなくなる」。そして「少なくとも、今後、何兆年かのあいだは」「可能性はきわめて低い」と不安を和らげる――。この宇宙観は、人生観とも響きあう。

「私」自身の終末も、ある種の真空崩壊と言えよう。宇宙に比べ、その可能性は格段に大きく、安心していられる時間は桁違いに短い。もちろん、崩壊には心がけ次第で回避できるものもあるが、「止める手段がない」リスクや「知りえない」リスクが数多ある。「私」の未来は、いつも崩壊と隣り合わせだ。宇宙の不確かさが「私」の存在の不確かさと見事に重なりあうではないか。科学本を読むことはやはり、自身の現在に光を当ててくれる。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月31日公開、通算607回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

電車に乗れた話、乗れなかった話

今週の書物/
『スライディング・ドア』
ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊

ロンドン地下鉄~The Tube

恋愛沙汰は、まさに量子力学的だ。ひょんなことから、ひょんなことが起こる。ひょんなことで、それからの人生が左右されたりもする。当事者は偶然の妙に翻弄されている。

当欄は今年、折に触れて「量子」を話題にしてきた(*)。クリスマスイブのきょうは、恋物語を量子力学風にとらえてみよう。量子力学の世界では原子や電子の状態がいくつも重なり合うが、観測されたとたん、それが一つに決まる。恋物語もこれに似ている。初めはもやもやしているのだが、なにか事件が起こると霧が払われ、見えなかったものが見えるようになる。可能性の膨らみが一気にしぼんで、筋が定まるという感じだ。

もっとも、このようなこじつけが成り立つのは「コペンハーゲン解釈」に立脚したときのことだ。量子力学の教科書的な解釈である。この考え方を踏まえると、物理系の〈重ね合わせ→観測→状態の収縮〉は人間系の〈可能性→事件→筋書きの確定〉に対応する。

コペンハーゲン解釈では、物理系が観測の瞬間にどの状態に落ち着くかを確率論で考える。これを恋物語に当てはめてみよう。AがBに恋心を抱いたとして、その後の筋書きはAが思いを遂げられる確率が10%、振られる確率が90%というように数値化される。これをAの視点から見たときに言えるのは、バラ色の未来が10%、灰色の未来が90%というだけではない。自分の未来がバラ色か灰色のどちらか一方になるということも含意されている。

ただ、量子力学の解釈はコペンハーゲン解釈だけではない。たとえば、異端と言われながらも最近注目度が高まっている多世界解釈がある。この見方では、物理系の観測者は観測のたびに身を分かち、それぞれの分身が別々の世界へ入っていく。物理系を〈P〉と観測した分身は物理系〈P〉の世界へ、物理系を〈Q〉と見た分身は物理系〈Q〉の世界へ進むのだ。このとき、その観測者の未来は無数にあると言ってもよいだろう。

ここで、AとBの恋物語を多世界解釈流に考察してみよう。二人の関係が量子力学的に展開するとすれば、そこには、AがBの心をとらえる未来も、AがBに見捨てられる未来も、確実にある。Aから見てバラ色の物語も、灰色の物語も、ともに成立するのだ。もし恋愛小説家がどちらか一方の筋書きを描いて終わりにしたら、それは恋物語の一部だけを拾いあげたことになる。世のたいていの恋愛小説は、そこにとどまっているのだが……。

で、そうではない作品を紹介したくなった。英米合作の映画「スライディング・ドア」(ピーター・ホーウィット監督・脚本、1997年)だ。主人公は、ロンドンの広告会社に勤めるヘレン、29歳。グウィネス・パルトロウが演じた。彼女は会社をクビになった日、地下鉄に飛び乗ろうとした瞬間、二人に分かれる。ここに流れ図を示そう。これは、『量子の新時代』(佐藤文隆、井元信之、尾関章著、朝日新書、2009年刊)の掲載図をもとにしている。
この映画を最後に観てからもう何年もたつので、細部は忘れてしまった。そこで今回、私は小説版を手に入れた。『スライディング・ドア――SLIDING DOORS』(ピーター・ホーウィット著、実川元子訳、WAVE出版、1998年刊)である。訳者のあとがきによると、著者はもともと俳優業の人で、これは監督第一作だった。ロンドン市街で道を渡ろうとしたとき、「あやうく車にはねられかけ、作品のアイデアがひらめいた」という。

一読して気づくのは、映画版と小説版で作品の印象が異なることだ。映画版では、登場人物の動きをカメラの目で追いかけている。人物描写が、客観的なわけだ。ところが、小説版は登場人物の意識の流れをたどることで、その人物の目に映る世界を主観的に描きだしている。この差異はふつう、小説を映画化したり映画をノベライズしたりするときにはそれほど気にならない。だが、物語が多世界含みとなると、注意が必要になる。

映画版では、物語が地下鉄ホームの場面で流れ図のa)b)に分かれ、それらが交互に展開される。a)の話がちょっと、b)の話がちょっと、再びa)をちょっと……という具合だ。小説版もa)b)交互は同じだが、ヘレンの視点の「プロローグ」があった後、第1章は彼女の同棲相手ジェリーの視点、第2章は地下鉄でたまたま隣の席にいたジェームズの視点、第3章はまたジェリーの視点……と第6章まで進み、「エピローグ」でヘレンに戻る。

したがって小説版1~6章で、a)の筋は一貫してジェリーの目で描かれる。逆にb)の筋をたどるのはジェームズの目だ。このようにa)b)は、ただ分岐した並行世界というだけではない。そこには、ジェリーとジェームズの主観も投影されている。

ここで気づくのは、多世界の概念が客観を前提にしていることだ。一人の人物が分岐する様子は、遠目に眺めるようにしか思い描けない。天空の視点が必須と言ってよい。ところが、人間の主観は地上の視点にとどまっている。小説版の読者は、プロローグや各章、エピローグごとにヘレンやジェリー、ジェームズの主観に引きずられ、さらにその分身一人から見た世界しか意識できない。それが枝分かれの一つであることを忘れがちになる。

多世界を感じとるには、別々の主観に身を寄せて物語を吟味するのは得策でないということだろう。この小説版ならば、ヘレンの一人称で書かれたプロローグとエピローグに的を絞り、一人の人間にとって世界の枝分かれがどんな意味をもつのかを考えてみたい。

プロローグでは、ヘレンが同僚とのいさかいで「つまりわたしはクビね」と啖呵を切り、オフィスをとび出る。ビル内のエレベーターを待ちながら思いめぐらすのは、ジェリーとのこれからだ。彼は作家志望なので、無収入。働いてもらうか。いや、「ダメダメ。ジェリーには世紀の大傑作を書くという使命がある」。自分がスーパーマーケットに働きに出るか、それともウェイトレスになるか……そんな未来の構想が頭のなかで渦巻くのだ。

エレベーターがやって来る。ヘレンは乗り込む。このとき、イヤリングが耳から外れて下に落ちた。チリンという音。乗り合わせたビジネスマン風の男が気づき、拾いあげてくれた。これが筋書きb)の伏線。その男性がジェームズだったことは、後の章でわかる。

ヘレンは通りに出て、携帯電話をとりだす。ジェリーに電話をかけるが、ずっと話し中だ。この事情は、a)の第1章を読むとわかる。「役立たず!」と内心穏やかではないが、「ダメダメ。いまのわたしには彼しかいないんだから」と思い直して地下鉄駅へ向かうのだ。

駅は降車客であふれていた。幼い女の子が人形を手に、下り用の階段を昇ってくる。ふだんなら子どもの愛らしさに免じて気にもならないのだろうが、今のヘレンは「しつけがなってない」とイラつく。「待って」「わたしはその電車に乗ります」「お願い、どうしても乗りたいの」と心は急く。一瞬先に二つの未来があるのだ。「もしもその電車に乗れなかったら……」「もしもその電車に乗れたら……」。プロローグは、そんな2行で結ばれる。

こうみてくると、ヘレンの人生には「乗れなかったら」と「乗れたら」の枝分かれに先だって、分岐後の筋のタネが仕掛けられていることがわかる。未来の構想がある。未来の伏線もある。1~6章をみると、一つの世界a)では構想通りの生活が始まるが、それがハッピーエンドになるとは限らない。一方、もう一つの世界b)では構想がズタズタにされ、代わりに伏線が実を結ぼうとするが、それが成就すると決まったわけでもない……。

エピローグにも触れておこう。ネタばらしをしたくないので詳細は明かせないが、このときのヘレンは、流れ図でいえばa)の世界にいて、今は入院中の身だ。病室で思案するのは「あの日、もし地下鉄のあの電車に間に合って乗れていたら、わたしはどうなっていたかしら」ということだ。ただ、そんなふうに思うa)の「わたし」は、プロローグの伏線がb)の「わたし」にもたらした劇的な筋書きをまったく察知できないでいる。

「私」がもし多くの並行世界のどれか一つにいるのだとしても、別の世界の別の「私」とはこのくらいの距離感にあるということだ。どこかの世界に、自分と同じ過去を共有する「私」がいて想像もつかない人生を歩んでいる――それはそれでよいではないか。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月24日公開、同月26日更新、通算606回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

友の句集、鳥が運ぶ回想の種子

今週の書物/
『句集 鳥の緯度』
土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊

椅子の脚

古くからの友人が句集を出した。友と私は小学校以来、すべて同じ学校を出た。職場は違ったが、どちらもメディア界だった。ふつう以上には濃厚な関係だ。俳句という、読みようでどのようにも読める作品群を私が読むことは、それなりに意味があるだろう。

友人は俳句の素人ではない。プロというわけではないが、有名な句会に出たり、結社に加わったりして修業を積んできた。いくつかの賞も受けている。だから、句集の掲載句はすべて水準以上だ。当欄でその一部を紹介する意味は小さくないように思われる。

で、今週は『句集 鳥の緯度』(土屋秀夫著、山河叢書32、青磁社、2021年刊)。著者、即ちわが友は1951年生まれ、山河俳句会の同人であり、現代俳句協会会員でもある。

本の帯に「北から南から鳥は日本に渡ってくる/赤い実を食べた鳥が私の荒地に種を落とした/…(中略)…/俳句の交わりから、詩のミューズから/到来した種が育って荒地は草原になった」とある。「あとがき」によれば、著者は散歩していて空き地にムラサキシキブを見つけ、鳥の落とし種が実を結んだのだろう、と推察した。「鳥の作った庭、私の句もそれに似ている」と思ったという。さっそく、その庭をのぞいてみよう――。

まず、私が世代的共感を抱いた句から。
舐めて貼る八十二円レノンの忌
封書が82円だったのは、2014年~2019年。一方、ジョン・レノンがニューヨークで暴漢に射殺されたのは1980年12月8日。切手貼りなどの些細な動作で、ふと昔の出来事が思い浮かぶことはよくある。私たちの年齢では、その時間幅が数十年に及ぶ。

「レノン撃たる」の一報を、私は初任地北陸の小都市で聞いた。場所は、県庁の記者クラブ。通信社の記者が東京本社から聞きつけたのだ。一瞬、茫然とした。あの日、窓の外は雪模様の曇天で……。作者にもきっと、同じような体験があるのだろう。この句には、郵便料金82円が時間軸の基点になるという妙がある。それにしてもコロナ禍の今、切手ペロリはたしなめられそうだ。古い手紙の82円切手は「舐めて貼る」時代の証言者か。

冬木立どの木も過去に遇ったひと
落葉樹の魅力は、初夏の新緑や晩秋の色づきだけではない。裸木(はだかぎ)と呼ばれる冬木立の姿もいい。枝分かれの細部が露わになり、木々の個性が見えてくる。「あの枝ぶりは毅然としていて、どこかあの人に似ている」「あの枝のあの曲がり方は、あいつの心の屈折そっくりだ」――並木道を歩きながら、樹木1本ずつを「過去に遇ったひと」に見立て、甘口辛口の思いを巡らせる。リタイア世代、冬の散歩道ならではの愉悦か。

風景句で気に入った2句。
菜畑の奥に廃業ラブホテル
菜畑という言葉で目に浮かんだのは、ドイツの風景だ。その春、私はミュンヘン郊外の量子光学研究所を訪れていた。荷電粒子を宙に浮かせ、光を当てる実験について取材しながら、窓外に広がる菜畑に目を奪われた。物理は無機の極みだが、菜の花はムッとするほど有機的。その対比が際立った。この句にもそれがある。ラブホは有機的なはずだが、ここでは看板の文字が欠け、窓の鎧戸も破れて無機の気配が漂う。「廃業」の一語が絶妙。

赤とんぼ物流倉庫という荒野
春の句「菜畑…ラブホ」の秋版。こちらの句では「赤とんぼ」が有機的、一方、「物流倉庫」はただでさえ無機的だが、その印象が「荒野」のひとことでいっそう強まった。川べりの敷地にはコンテナが野積みされている。庫内はロボットがいるだけか。

次に、静物句をいくつか。
じゃが芋が鈍器のように置かれあり
私の記者経験では、警察は窃盗事件の発生を発表するとき、「ドアをバール様のものでこじ開け」という表現を多用した。バールは鉄梃(かなてこ)。窃盗犯は、鉄梃かどうかわからないが、鉄梃状のモノを使ったということだ。モノから道具としての属性を差し引く「様のもの」。この句の「鈍器のよう」にも同様の作用がある。じゃが芋から、ポテサラやおでんの材料という性格が引きはがされている。芋を実存にしてしまった句。

寒晴の肉感的な椅子の脚
過去のあるビロードの椅子青嵐
作者は、椅子という家具に強いこだわりがあるようだ。前者は、冬の陽光が差し込む部屋にいて、無人の椅子に目をとめた句だろう。太陽が低いから、日差しは斜め。脚部にも光が届くのだ。「肉感的」とあることで、この椅子はかつてそこに座った人の分身となる。作者は、その人との交流を追憶しているのかもしれない。後者は、椅子が呼び起こす回想性をより直截的に詠んだ句。「ビロード」の質感が体温の名残のように思えてくる。

ここで打ち明け話をすると、私は作者が発起人である句会に参加している。指導役の宗匠を歌壇俳壇から招いて開かれる。メンバーにも句歴豊かな人が多いが、私のような純然アマチュアもいる。定例の句会では、メンバーが匿名で投句した作品から秀句を互選する。この句集には、作者がその句会に出したものも含まれている。そのなかには、私が会では選ばなかったが今回選びたくなった作品もある。そんな句を二つ挙げよう。

木守柿通勤準急加速する
木守柿は、収穫後の木にあえて残した柿の実を言う。翌年の結実を願う風習らしい。この常識を知らなかったために私は選句しなかった。反省。梢に一つ二つ残る鮮烈な柿色。それが車窓に見えたなら絶対に目で追うだろう。動体視力を振り切る通勤準急が憎い。

叡山をむこうにまわし赤蛙
この句を選ばなかったのは、無知ゆえではない。京都に単身で住んだとき、鴨川沿いに寓居を借りた。対岸に五山送り火の大文字が見え、彼方には叡山も望めた。私は、赤蛙に自分の京都を奪われた気がしたのだ。選句には、ときにそんな嫉妬心が作用する。

次いで、社会派風ともとれる2句。
アロハ着てパチンコ打ちにいく自由
これも句会に出され、私は1票を投じた。「アロハ」を唐突に感じる向きもあろうが、句会の兼題(課題のようなもの)が「アロハシャツ」だったのだ。「アロハ」の軽装感と「パチンコ」の騒然感を「自由」という高邁な概念に結びつけた。散文風なのがいい。

電気ケトルの先に原子炉すべりひゆ
湯はガスで沸かすもの、というのは過去の話、うちはオール電化です、と悦に入っていたら、電気湯沸かしの大もとに原発という核分裂の湯沸かしがあることに気づいた――そんな感じか。私は一瞬、下の句「すべりひゆ」を古めかしい動詞かと思った。調べてみると、雑草の一種ではないか。ここでも、自らの無知に赤面。作者は植物に詳しいので、この草を夏の季語として下の句に置いたのだろう。だがなぜ、スベリヒユなのか?

電力と雑草という異世界のアイテムを出会わせる。俳句の極意はそこにあるのだから、理由を詮索するのは無粋だ。でも、どこかで異世界同士が通じあっていないか。そう思ってスベリヒユの画像をネット検索すると、茎が地を這うように枝分かれしていた。送電網(グリッド)の図面に見えなくもない。作者にはこのイメージがあって、そこに電力を重ねあわせたのか、それとも意図はないのに偶然、ぴったり重なりあったのか。

蛇足を言い添えれば、スベリヒユはトウモロコシなどと同様、光合成を高能率にこなす植物(C4植物)だという。光合成→二酸化炭素固定→脱炭素社会と、この一面もエネルギー・環境問題につながる。こうみてくると、スベリヒユは下の句に適任だったのか。

最後に、この句集でもっとも危うい句。
古本のような女をめくり遅日
「古本のような女」と読んで、ギクッとする。ふつうなら言ってはいけない言葉だ。「古本」と言えば、ネット通販の注意書きにある「一部にヤケ、表紙にスレ」を連想してしまう。だが裏を返せば、その本はたくさんの旅をして、多くの人に出会ってきたのかもしれない。動詞「めくり」もきわどいが、この句の主人公は本の頁を繰るように「女」の話を聴いているのだ、と解釈しよう。早春の午後遅く、傾く陽射しを受けながら……。

締めは、友人に敬意と謝意を込めて拙句を。
友の句を巡りたずねて暦果つ(寛太無)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月17日公開、通算605回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

「家政婦は見た」という長閑な監視

今週の書物/
「熱い空気」
松本清張著(初出は『週刊文春』、1963年に連載)
=『事故 別冊黒い画集(1)』(松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊)所収

家事

こんなふうに1週1稿の読書ブログを続けていると、ときに小さな発見に恵まれる。世界観にかかわるような大発見ではない。ちっぽけな驚き。今年で言えば、「2時間ミステリー、蔵出しの愉悦(当欄2021年7月30日付)で読んだ本にそれがあった。

『2時間ドラマ40年の軌跡』(大野茂著、発行・東京ニュース通信社、発売・徳間書店、2018年刊)。巻末に収められたデータ集には、2時間ミステリー(2H)の視聴率ランキングが載っていた。驚いたのは、テレビ朝日系列の「土曜ワイド劇場」(土ワイ)で歴代1位、2位、5位の高視聴率を獲得したドラマが、あの「家政婦は見た!」の作品群だったことだ。1983年に始まったシリーズの第1~3作が軒並み上位に名を連ねている。

副題を見てみよう。堂々の1位は「エリート家庭の浮気の秘密 みだれて…」(1984年放映、視聴率30.9%)、2位は「エリート家庭のあら探し 結婚スキャンダルの秘密」(1985年、29.1%)。そして5位は、主タイトルが「松本清張の熱い空気」、副題に「家政婦は見た! 夫婦の秘密“焦げた”」とある(1983年、同27.7%)。この作品が当たったので副題を前面に出してシリーズ化したら、後続がそれをしのいで大当たりしたということらしい。

ちなみに第2作の視聴率30.9%は、2時間ミステリー史に聳える金字塔だ。『2時間ドラマ40年…』のデータ集によると、この数字は、土ワイ最大の競争相手「火曜サスペンス劇場」(火サス、日本テレビ系列)のドラマ群も超えられなかった。

シリーズの主人公は、新劇出身の市原悦子が演じる地味な「家政婦」。芝居の黒衣(くろご)のような立場なのに、雇い主の「エリート家庭」に潜む「浮気」や「スキャンダル」を鋭い観察眼で見抜き、巧妙な計略で取り澄ましている人々を窮地に追い込む。

ミステリーだが、殺人事件は出てこない。家庭が舞台だから派手さもない。人殺しのない推理小説は、ときに「コージーミステリー」と呼ばれる(*文末に注)。“cozy”――英国風の綴りなら“cosy”――は「心地よい」の意。では、このドラマに心地よさがあったかと言えば、そうではない。「家政婦」の意地悪さが半端ではないので、寒気が走るほどだ。それなのになぜ、こんなに受けたのか。当欄は、そこに注目してみよう。

まず押さえておきたいのは、シリーズ第1作の主タイトルに「松本清張」が冠せられていることだ。すなわち、第1作は正真正銘、清張の小説を原作にしている。第2作以降はドラマの枠組みを清張作品に借り、個々の筋書きは脚本家に委ねられたという。

で、今週手にとったのは「熱い空気」(『事故 別冊黒い画集(1)』〈松本清張著、文春文庫、新装版2007年刊〉所収)という中編小説。シリーズ第1作の原作である。1963年春から夏にかけて『週刊文春』に連載され、1975年には文春文庫に収められている。

小説が描くのは昭和30年代後半、すなわち高度成長半ばの世界だ。これに対して土ワイ枠でドラマ化されたのは、昭和で言えば50年代後半、日本社会が石油ショックをくぐり抜け、バブル期に差しかかろうとするころだ。同じ昭和でも、この20年間の差は大きい。

小説の作中世界で時代感を拾いだしてみよう。作品冒頭部に住み込み家政婦の報酬が明かされている。「食事向う持ちで一日八百五十円」。時給ではない。日給である。別の箇所には「ラーメン代百円」の記述も。あのころの物価水準は、そんなものだった。

家政婦の稼ぎについては「食べて月平均二万五千円の収入」という表現もある。850円×30日=25,500円だから、ここから推察できるのは、家政婦は、一つの家に雇われると期間中は3食付きで、ほとんど休みなくぶっ通しで働いたらしいということだ。実労働1日8時間の縛りはあったようだが、家事は「労働と休息のけじめがはっきりしない」。早朝から深夜まで10時間を超えて「拘束」されることが「ふつう」であったという。

主人公の河野信子――シリーズ第2作からは「石崎秋子」に代わる――は東京・渋谷の家政婦会から、青山の高樹町にある大学教授の稲村達也邸に送り込まれる。初日の描写から、当時の家政婦が受けていた待遇がわかる。挨拶の後、「その家の三畳の間に入れられた」「そこですぐにスーツケースを開き、セーターとスカートを穿き替えて、エプロンをつけた」。三畳間は前任の「女中」が辞めた後、物置として使われていたらしい、とある。

そう言えば……と私が思いだすのは、あのころ屋敷町の家にはたいてい、三畳や四畳半の小部屋があったことだ。私の周りでは住み込みの使用人がいる家はすでに少なかったが、それでもそんな一室があり、「女中部屋」と呼ばれることもあったと記憶する。

1960年代前半は、ちょうど「女中」が「お手伝いさん」に言い換えられたころだ。作中でも教授の妻春子が信子の前任者のことを語るとき、あるときは「お手伝いの娘」、別の場面では「女中」と呼んでいる。奉公という封建制の名残が絶滅の直前だった。

著者は、そんな時代の曲がり角で「家政婦」という職種に目をつけた。「家政婦」は「女中」の仕事を引き継ぐのだから奉公人の一面を残す。だが実は、家政婦会を介して雇用契約を結ぶ労働者だ。だから、雇い主の家庭を突き放して観察することができる――。

興味深いのは、ドラマの「家政婦は見た!」が世の中の脱封建化が進んだ1980年代に放映されても、違和感がなかったことだ。すでに中間層が分厚くなっていた。だから視聴者は、家政婦という労働者が自分に成り代わってエリート階層を困らせることには、さほど快感を覚えなかったように思う。ではなぜ、魅力を感じたのか? 理由の一つは、家政婦の眼が隠しカメラのように「秘密」をあばく様子がスリリングだったからだろう。

小説「熱い空気」から、そんな場面を切りだしてみよう。ただ、ネタばらしは避けたいので深入りはしない。信子が達也の「秘密」をかぎつける瞬間だけをお伝えしよう。

信子が食器を洗っていると、玄関から声が聞こえる。急いで出ていくと「郵便配達人が板の間に速達を投げ出して帰ったあとだった」。ここで気づくのは、配達人が玄関に勝手に入り込んだらしいことだ。たしかに1960年代前半、昼間は施錠しない家も多かった。郵便物の扱いも今より緩い感じがする。速達だから居住人が留守なら郵便受けに入れればよいのだが、この配達人は不在かどうかを確かめる様子もなく、置いただけで立ち去っている。

茶色の封筒には「稲村達也様」の表書き。裏面には「大東商事株式会社業務部」と印刷されている。いかにも「社用」だ。だが信子は、「稲村…」が「女文字」で書かれていることにピンとくる。今ならば、この手の郵便物の宛て名は、ワープロ文書を印字したものを切りとって貼っていることが多い。かりに手書きであっても、その文字に性差を感じることはほとんどない。1960年代半ばは、宛て名書き一つにも人間の匂いがしたのだ。

信子は、封筒を「懐ろに入れて台所に戻った」。隠し場所が「懐ろ」というのだから、着物を仕事着にしていたのだろう。ガスレンジでは折よく、湯が沸き立っている。だれも台所に入ってきそうもないのを見極めて、封筒をかざし、「封じ目を薬罐の湯気に当てた」。糊が緩んで、封は容易に開く。封筒をまた懐ろにしまって、トイレへ。便箋を広げると、待ち合わせの時刻や場所を知らせる文面で、末尾には女性の名があった――。

1960年代は、スキだらけの時代だった。家庭の「秘密」は、黒衣として紛れ込んだ人物の直感や悪知恵に偶然が味方すれば、いともたやすくあぶり出された。1980年代はどうだったか。そんなドラマの筋書きが不自然ではないほどに世間はまだ緩かった。

だが、今は違う。「秘密」は、とりあえずパスワードで守られているはずだ。だが、ネットワークの向こう側に正体不明の黒衣がいる。スマートフォンとともに暮らしていると、自分が何に興味を抱いているか、いつどこへ出かけたか、など私的事情が筒抜けのことがある。街に出れば、防犯カメラが見下ろしている。通りを歩けば、車載カメラが横目で通り過ぎていく。「家政婦」が見ていなくても、生活がまるごと、巨大な黒衣に監視されている。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年12月10日公開、通算604回
*コージーミステリーについては、当ブログの前身「本読み by chance」で幾度か言及しています。以下の回です。ご参考まで。
佐野洋アラウンド80のコージー感覚」(2015年3月20日付)
佐野洋で老境の時間軸を考える」(2017年2月10日付)
ことしはジーヴズを読んで年を越す」(2018年12月28日付)
**引用箇所のルビは原則、省きました。
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

グレコの時代、実存の左派批判

今週の書物/
「汚れた手」
ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳
サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂

枯葉、というより落ち葉

語りかけられているようだ。なんと心地よいことだろう。私は今、そんな歌声を聞いている。「枯葉」「詩人の魂」……。スピーカーの向こうで歌っているのは、ジュリエット・グレコ。去年9月、93歳で逝った――。シャンソンは、私たちの世代にとって格別の音楽ジャンルだ。ジャズやロックと違って、どこか文学の香りがする。こんなことをフランス語がわからない私が言うのも滑稽だが、言葉なしにシャンソンはありえない。

1970年前後、私はブンガク青年だった。文才があったわけではない。読書量が多かったとも言えない。ただ、ブンガクっぽい雰囲気に触れると、コロッと参ってしまうきらいがあったのだ。だから、音楽の嗜好のなかでジャズやカントリー&ウェスタンの比重が高まっても、シャンソンはずっと憧れの的だった。渋谷駅近くにシャンソンのレコードだけを回している喫茶店があったので、ときどきそこを訪れては時間をつぶしていた。

シャンソン歌手のなかでもグレコは特別な存在だった。歌の向こうにセーヌ左岸、サン・ジェルマン・デ・プレの空気が感じとれたからだ。地下酒場に実存主義哲学者ジャン-ポール・サルトルらがたむろして知的な会話を交わしている――あの低音の歌声を聞いていると、そんな情景が思い浮かんだ。来日時のテレビ出演でも、黒っぽいドレスをまとって表情たっぷりに歌う姿が現代フランスの知性を象徴しているように見えたのである。

実際にグレコは第2次大戦後まもなく、セーヌ左岸で喝采を浴びた人だった。酒場の客たちから「実存主義のミューズ」と呼ばれたという。彼女が、あの時代に人心をつかんだのはなぜか。それは、個人史が同時代史に重なり、人々の共感を呼んだからだろう。グレコの母や姉は戦時中、対独レジスタンス運動にかかわり、ナチスによって収容所に送られていた。そんな事情で彼女自身も少女時代から自立を余儀なくされ、歌手になったという。

ここで押さえておきたいのは、セーヌ左岸の戦後史だ。パリがナチス・ドイツの占領から解放されて20年ほどが過ぎたころ、左岸の主役は代替わりした。1968年、若者たちが立ちあがって五月革命が起こると、左岸の大学街が主舞台となる。私がグレコに魅せられたのは、その余韻が残る1970年前後。私のグレコに対する憧憬には周回遅れの時間差があった。(「本読み by chance」2016年5月13日付「五月革命、禁止が禁止された日々」)

で、今週は、戯曲「汚れた手」(ジャン-ポール・サルトル著、白井浩司訳、サルトル全集第7巻『汚れた手(改訂版)』所収、人文書院、1961年改訂)。本を開くと「1948年4月2日、パリ、アントワーヌ劇場にて初演」とある。まさに、グレコが一世を風靡していたころの作品だ。当時のフランス知識人が何を考えていたかを知る助けになる。ただ、そこに描かれているのは、イリリという架空の国で戦時下に起こった出来事なのだが……。

第一場第一景では、街道筋の民家に青年が訪ねてくる。居住人の女性、オルガは警戒心から拳銃を隠しもって扉を開ける。そこには旧知のユゴーがいた。「刑期は五年だったんじゃないの?」。刑期半ばで仮釈放されたという。どうやらここは、左翼党派の拠点らしい。

ユゴーは23歳。読み進んでわかるのは、政治弾圧で服役したのではないらしいことだ。党の実力者エドレルを射殺したかどで罰せられていた。本人によれば、凶行は別の党幹部の命令による。ところが、刑務所に差し入れられた菓子には毒物が含まれていた。今は、党に対する不信感が拭えない。オルガに向かって「命令なんてものは影も形もなくなるんだ」「命令はうしろにとり残され、僕はたったひとりで前進した」と言い募る。

実際、党の追っ手が押しかけてくる。オルガはユゴーを寝室にかくまい、彼を引き渡そうとはしない。そして、党幹部のルイを呼んで、追っ手を送り込んだことに抗議する。自分は党を思っている、それでなくともドイツのイリリ侵攻後、党は人材を失うばかりだ――「あの子が回収可能かどうか調べもしないで、粛清していいとは思えないわ」。ここで、「回収」を「粛清」の対義語にしているところに党派というものの怖さが見てとれる。

ルイはオルガの説得を受け入れ、戸外に見張り役を置いただけで、とりあえずは引き揚げる。家のなかには再び、ユゴーとオルガだけが残る。そこで彼は2年前、1943年3月に遡って自らの体験を振り返る。その回想が、第二場から第六場までの物語である。

第二場の冒頭は、この家でユゴーがタイプライターのキーをひたすら叩いている場面。入党後1年が過ぎたころで、党の機関紙づくりに追われているらしい。このとき、彼には焦りがあった。オルガにも「仲間が殺されているのに、安閑としてタイプを打っているのがいやになった」と訴え、自分が「直接行動」に打って出られるようルイに頼んでほしい、と懇願する。そして、その意思はルイに伝わる。これが、すべての始まりだった。

ユゴーの回想は、戯曲としておもしろい。だから、ここで筋書きをなぞれば、興ざめになってしまう。そこで当欄は別の角度から、この本を読む。焦点を当てるのは、近過去に左翼党派がどんな苦悩を抱え、どんな落とし穴に直面していたか、ということだ。

戦時、イリリ国の政治状況はルイの台詞から読みとれる。政権を担うのは、ファシズム勢力の摂政派で、枢軸国に近い立場をとっている。対抗するのはルイがいる党、すなわち労働党だ。「デモクラシーのため、自由のため、階級なき社会のため」を旗印にしている。もう一つ、ブルジョワジーを代表するパンタゴン党が中間に位置している。自由主義者から国家主義者まで、その支持層は広い。政界は三つ巴の力学で動いているわけだ。

労働党も一枚岩ではない。もとをたどれば、多数派の民主社会党と少数派の農民党が合流した党だからだ。エドレルは前者の側にいる。ルイはもともと後者の代表だった。

この作品では、エドレルが摂政派やパンタゴン党と手を結ぼうとする。挙国一致体制をめざすというのだ。交渉に訪れた両派代表に対して、執行委員会の椅子の半数を労働党によこせ、と強気に出る。背景には、枢軸国ドイツの敗色が濃くなり、イリリに対するソ連の影響力が強まるという目算があった。自党のみが戦時下でもソ連と接触してきたと自負して、こう言う。「ソ連がここにやってきたら、彼らはわれわれの眼で万事を眺めるでしょう」

ユゴーはエドレルに面と向かって、党には社会主義経済という目標と階級闘争という手段があるのに「資本主義経済の枠内で、各階級の協力政策を実現するため、党を利用しようとしている」と非難する。だが、エドレルは動じない。社会主義軍が自国を占領しそうな情勢を好機とみて、それに便乗しない手はないというのだ。「われわれは自力で革命を遂行するほど強力ではない」。労働者の国際連帯が素朴に信奉されていたころの論理である。

この戯曲は、左翼党派が陥りがちな落とし穴も浮かびあがらせる。裕福な家庭に育った知識人党員への妬みが仲間うちに燻ることだ。社会主義の主役は労働者ということになっている。ところが現実には、知識人の指導力も欠かせない。そこに軋轢のタネがある。

これは第一場で、ルイがオルガに向けて言い放ったユゴー評にも見てとれる。「あいつは規律のないアナーキスト、ポーズをとることしか考えないインテリ」――。ユゴーは、父が燃料会社の副社長で自身も博士号を得ている。「僕は家を、そして階級を棄てた」と言い張るが、その入党も労働者出身の党員からは「この人はいわば道楽から入った」と侮蔑されている。道楽ではないことを見せたくて「直接行動」に走ったと言えなくもない。

エドレルは生前、党が摂政派と取引して対ソ停戦に成功すれば多くの人命を救うことになると主張して、ユゴーを「君は人間を愛していない」「君は原則しか愛していない」と批判している。「君は自分を憎んでいるから、人間を憎んでいる」とも言い添えている。知識人の独りよがりの自己否定は理念一本やりの教条主義を生み、回りまわって人間否定につながるということか。たしかに、そういう光景を私たちは見てきたような気がする。

この戯曲は、日本の左派が1970年代に迷い込んだ袋小路も暗示している。サルトルは大戦直後、自身が左派でありながら、その弱点を実存主義者の目で見抜いていた。実存主義からの左派批判がもっと深まっていれば、その後の政治風景は変わっていたかもしれない。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年12月3日公開、通算603回
*当欄は今年、「実存」の話題を継続的にとりあげています。
漱石の実存、30分の空白」(2021年1月8日)
実存の年頃にサルトルを再訪する」(2021年1月29日)
サルトル的実存の科学観(2021年2月5日)
新実存をもういっぺん吟味する(2021年2月19日)
量子力学のリョ、実存に出会う(2021年6月4日)
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。