苦海浄土を先入観なしに読む

今週の書物/
『苦海浄土――わが水俣病』
石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊

水銀

ジョニー・デップが製作して主演する映画「MINAMATA――ミナマタ」が今秋、公開された。1970年代、熊本県水俣の地に住みついて、公害病である水俣病の現実を世界の人々に伝えた米国の写真家ユージン・スミス。その活動を跡づける作品だ。

私がこの映画のことを知ったのは、テレビのニュースからだ。たまたま秋口に読んでいたのが、文庫版『苦海浄土――わが水俣病』(石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版)だった。時間を見つけては少しずつ読み進んでいたので、頭のなかに「ミナマタ」が宿っていた。そんなとき、テレビから「ミナマタ」が聞こえてきたのだ。めぐり合わせの妙に驚いた。これを奇貨として、今回は『苦海…』をとりあげることにする。

当欄の前身でも打ち明けたことだが、私はこの本をこれまで完読していなかった(「本読み by chance」2018年3月2日付「石牟礼文学が射た近代という病」)。『苦海…』は1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞にいったん選ばれている。著者本人が受賞を辞退したため、作品の一部は「候補作」として『文藝春秋』誌(1970年5月号)に載った。それを読みかじって作品世界の底知れなさに圧倒され、以来、敬遠してしまったのだ。

拙稿「石牟礼文学が射た…」は、著者の石牟礼道子さん(1927~2018)が亡くなった直後に書いた。本来ならあのときに『苦海…』全編を読み通すべきだった。だが、私がとりあげた本は、地元紙記者が執筆した『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)だった。なおも敬遠を続けたのである。それではいけない、という思いも残った。だから先日、書店の中古本コーナーで『苦海…』を見つけると、それをすぐに買い込んだ。

で、今回は巻末解説を含む400ページ余を読み切ったのだが、実はこれでも完読ではない。『苦海…』は、この本の刊行後に第2部、第3部が続いており、副題に「わが水俣病」とあるものは第1部にすぎない。この作品は、ほんとうに底知れないのである。

その第1部を読んでわかったのは、意外にも記録性が高い、ということだ。半世紀前の第一印象のせいもあって、この作品では水俣の人々、とりわけ水俣病患者たちが内なる思いをひたすら語っている、という先入観があった。だが実際は、それにとどまらない。化学物質の大量生産拠点が有機水銀という毒物を吐きだし、それが地産地消の地域社会に生きる人々の生をむしばんでいったという水俣の現代史が見渡せるつくりになっている。

この本には生の資料が頻出する。たとえば、新日本窒素肥料(現・チッソ)の附属病院医師、細川一博士が1956年8月、患者30人の診療結果をまとめた報告書。その病は、博士自身が同年5月に「原因不明」の神経疾患として保健所に届けていたものだ。これが「水俣病」の初確認とされる。博士は後年、病因が同社の排水にあることを動物実験で確かめたが、会社の意向で公表できなかった。科学者の良心と企業の理屈の板挟みになった人である。

この報告書は、水俣病確認直後の貴重な臨床記録だ。「まず四肢末端のじんじんする感があり次いで物が握れない。ボタンがかけられない。歩くとつまずく。走れない。甘ったれた様な言葉になる。又しばしば目が見えにくい。耳が遠い。食物がのみこみにくい」と、逐一症状が記されている。「増悪」「漸次軽快」などの医師用語もそのままだ。「後貽症」(後遺症のこと)には「四肢運動障害、言語障害、視力障害(稀に盲 難聴等)」とある。

報告書の結びでは「家族ならびに地域集積性の極めて顕著なこと」や「海岸地方に多いこと」も指摘されている。海岸部に集中しているのなら海が関係しているのだろう、同一家族に多いのなら食生活が原因かもしれない――そんな疑いをにおわせる記述だ。

この本には『熊本医学会雑誌』(第31巻補冊第1、1957年1月)に載った論文も出てくる。長文の引用だ。それによれば、この病気の多発集落は海寄りの傾斜地にあり、住人には「近海並びに、港湾内での漁獲に従事するものが多い」。食事面では副食で「漁獲の魚貝類を多食する」との記述もある。論文は、発病は「共通原因」の「長期連続曝露」によるとしたうえで、その「原因」を「汚染された港湾生棲の魚貝類」に絞り込んでいる。

『熊本医学会雑誌』の同じ巻からは、別の論文も引用されている。この病気にかかった猫の観察記録だ。「踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウ」「前脚ハ固定シタママ後脚デ地面ヲケルタメ、人間ノ逆立チト同様、体ガ浮キ上ガルヨウニナル」――漢字カタカナ交じりの武骨な文字列。意味を読みとろうにもすんなりとはいかない。猫の目に映る世界も同じようにぎこちなくなっているのか。そんなふうに思えてくる。

もちろん、『苦海…』最大の読みどころは水俣病患者の生きる姿、発する言葉にある。第一章に登場する少年「九平」も、その一人だ。庭で「おそろしく一心に、一連の『作業』をくり返していた」。ラジオのプロ野球中継が大好き。「作業」は野球の練習なのだ。ただ、「彼の足と腰はいつも安定を欠き」「へっぴり腰ないし、および腰」――この描写によって、後段に出てくる細川報告書の「四肢運動障害」が血肉化されて見えてくる。

第三章「ゆき女きき書」では、「ゆき」という患者が市立病院の病室で語りつづける。「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた」「海の上はほんによかった」「ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい」(太字箇所に傍点)――これは、自ら漁に出て海の幸とともに暮らしていた人の真情だろう。医学会雑誌にある「汚染された港湾生棲の魚貝類」の「長期連続曝露」の現実がここにある。

作品全編を通してみると、このように主観と客観が巧妙に組み合わされている。著者の目に映る光景や、著者の耳がとらえた言葉は、水俣病という病が人間のありようにどんな影響を与えたかを生々しく、主観的に伝えてくれる。一方で、その合間に挟み込まれた報告書や論文などは無味乾燥である分、客観性があって、見たこと聞いたことの嘘のなさを裏打ちしてくれる。その二つの効果が見事に響きあったのが『苦海…』ではないか。

それで改めて思うのは、『苦海…』が1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞の選考審査に合格していることだ。大宅賞は、ノンフィクションに的を絞っている。1970年は初回だったのだから、当然、ノンフィクション性が高く評価されたとみるべきだろう。だが私たちは、作品の価値を水俣病の患者、家族の声を紡いだところにばかり見いだしがちだ。もう少し、ノンフィクション作品としての構造に関心を寄せてもよいだろう。

と、やや結論めいたことを書いたのだが、私にはもう一つ大いに気になることがある。巻末解説「石牟礼道子の世界」が、「実をいえば『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない」と断じているのだ。その執筆者である渡辺京二さんは、石牟礼さんが1965~66年に『苦海…』の原型となる文章を連載した『熊本風土記』誌の編集人だ。作品誕生の事情をよく知っている。その人の言葉だから聞き流せない。

渡辺解説によると、石牟礼さんは患者たちの家をさほど足繁くは訪れていない。訪問時にノートや録音機を持参しなかった、ともいう。彼はあるとき、『苦海…』にある患者の言葉は実際に口に出して語られたものなのか、という疑念をぶつけてみた。「すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった」。そして、こんな答えを返したという。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」

元新聞記者としては、驚くよりほかない。取材相手の発言を聞いて、主語と述語がつながらなかったり、「てにをは」がでたらめだったりするとき、書き手が相手の意をくみとって文を整えることはありうる。だが、それは最小限にとどめるべきものだ。ところが『苦海…』の著者は、気後れすることなく「心の中」を「文字にする」と言ったという。この内幕話は、私がこの作品を読んで受けた「記録性が高い」という印象を全否定しかねない。

そう言えば、この作品では事実と虚構の線引きがあいまいだ。登場人物には固有名詞が付されているが、それが実名なのか仮名なのかがはっきりしない。人物ばかりではない。水俣病の原因を「汚染された港湾生棲の魚貝類」とにらんだ前述の論文は、表題を「水俣地方に発生した原因不明の中枢神経系疾患に関する疫学調査成績」と明記しているが、筆者名は書かれていない。だから読み手は一瞬、論文は架空なのかと疑ってしまう。

実は、この表題の論文が実在することは今、熊本大学図書館の公式サイトで確かめられる。そこには、執筆陣の氏名も列記されている。この作品が採用した文書はリアルとみてよいだろう。その記録性が、著者による患者の「心の中」の斟酌を支えているのである。

渡辺さんはこの解説で、『苦海…』を「石牟礼道子の私小説である」と言っている。「私小説」かどうかは別にして、「小説」らしさに満ちていると私も思う。小説ではあっても、リアルな大事件の深層を感じとったという一点でノンフィクションなのかもしれない。

次回も『苦海…』を続ける。今度は、小説としての側面に光を当てるつもりだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月22日公開、同月24日更新、通算597回
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ノーベル賞、「予想外」の醍醐味

今週の書物/
ノーベル賞2021年報道資料
https://www.nobelprize.org/

報道資料

ノーベル賞の発表が進行中だ。今週は、その話題をとりあげる。今年は、世間の予想を覆す選考結果が目立った。その背景も探ってみることにしよう(文中敬称略)。

なんと言っても、最大の予想外は物理学賞だ。この時代、日本生まれの在米科学者が受賞するのは意外ではない。私にとって最大の驚きは、物理学賞が複雑系科学を真正面からとりあげ、称賛したことだった。ノーベル賞が、物理学と考えるものの枠を広げたのだ。その結果、地球科学も視野に入り、気候変動に対する危機感を世界に向けて訴えることができた。意地悪な見方をすれば、そのメッセージのために枠を拡張したと言えないこともない。

複雑系科学は、20世紀後半に強まった自然探究の流れだ。自然界を最小単位にさかのぼって理解しようという還元主義の科学に翳りが差し、それに取って代わるものとして台頭した。物理学賞ももちろん、この潮流に対応してきた。たとえば、1977年には早くも、フィリップ・アンダーソン(米)やネビル・モット(英)を受賞者に選んでいる。二人は、原子の並びが無秩序な固体系のしくみを探ったことが高く評価されたのである。

ただアンダーソンもモットも、バリバリの固体物理学者だった。旧来の物理学の領域内で複雑系の謎に向きあったということだ。領域の外縁部で大成果を挙げた人には賞を出していない。それで思い浮かぶのは、気象学者のエドワード・ローレンツ(米)。天気にカオス(混沌)を見いだした。気象は、初期値の小さなズレ――たとえば蝶の羽ばたき――がやがて大きな違いを生みだすので予測困難、というバタフライ効果に気づいた人である。

カオスの概念はその後、物理学の各分野に大きな影響を与えた。ローレンツは複雑系探究の先駆者として物理学賞を受けてもよかったと思われるのだが、実現しないまま2008年に逝った。この歴史を踏まえると、今回の選考結果は思いもよらぬものだった。

では、プレスリリースに入ろう。選考母体(物理学賞はスウェーデン王立科学アカデミー)の苦心の跡が見てとれるのは、授賞理由の二重構造だ。まず、受賞者3人に共通する理由として「複雑な物理系の理解への画期的な貢献」を挙げる。そのうえで、真鍋淑郎とクラウス・ハッセルマン(独)には気候モデルの構築に対して、ジョルジョ・パリーシ(伊)には物理系の無秩序とゆらぎの研究に対して、それぞれ賞を贈るとしている。

三人の業績も要約されている。真鍋については「1960年代、地球の気候の物理モデルを考案して、放射の均衡と気団の垂直移動の相互作用を探った最初の人」とある。「最初の人」のひとことは重い。気候変動研究の草分けであることを明言しているのである。

ハッセルマンは、短期的な「天気」と長期的な「気候」を結びつける気候モデルを作成した、という。これは「なぜ、天気が変わりやすくカオスのようであっても、気候モデルは信頼できるか、という問いに答えを出す」ものだった。もう一つの功績は、気候変動に人間活動が影響を与えている痕跡を見分ける手法を見つけたことだ。このおかげで、地球温暖化が人間活動による二酸化炭素排出に起因することが裏づけられたのである。

残る一人、パリーシについての記述は難しい。1980年ごろの仕事として「無秩序で複雑な物質には隠れた『パターン』があることを発見した」とある。「?」だ。報道資料の一つである「一般向け解説」(Popular Science Background)を開くと、この「無秩序で複雑な物質」は「スピングラス」(スピンのガラス状態)だとわかる。これは、合金に微量の磁性原子が混ざっていて、それらの向き(スピン)に規則性がない状態を指す。

磁性原子は、近くにいる仲間の磁性原子のスピンの影響を受けて向きを変える。このとき個々の磁性原子の視点に立つと、自分がどっちを向いたらよいか迷う状況も現れる。「隠れた『バターン』」の「発見」は、この問題の解決につながっているらしい。

パリーシの地道な基礎研究は、一見すれば真鍋・ハッセルマン組が成し遂げた人類的な業績から遠く離れている。それがなぜ、同時受賞なのか。答えはプレスリリースにある。パリーシの発見は物理学のみならず、数学や生物学、神経科学、機械学習などの諸分野で「不規則な物事」を理解したり記述したりするのに役立っている、というのだ。この分野横断性にこそ、複雑系の強みがある。これが、二階建ての授賞理由を成り立たせたのである。

医学生理学賞は「温度と接触の受容体発見」を授賞理由に、米国のデービッド・ジュリアスと、レバノン生まれ米国在住のアーデム・パタプティアンに贈られる。こちらは、人体の感覚のしくみに迫った地味な研究だ。そのことが逆にメディアに衝撃を与えた。

というのも、下馬評では、コロナ禍で一躍脚光を浴びたメッセンジャーRNAワクチンの開発者が最有望視されていたからだ。ところが蓋を開けてみれば……肩透かしとは、こういうことを言うのだろう。選考母体のスウェーデン・カロリンスカ医科大学が開いた記者会見(ネットでも生中継)でも、メディアの期待外れ感は歴然だった。授賞理由の説明が終わり、質疑応答の段になっても、例年のように矢継ぎ早の質問が出ることはなかった。

ただ、こんなときにも黙っていないのが欧米メディアだ。AP通信の記者は、最大の関心事が「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)」にあることを隠そうとはしなかった。選考ではワクチンの研究についても調査したか? 将来、その授賞はありうるか?――そんな趣旨の質問を浴びせた。選考側は、「ノミネーション」のあった研究は徹底的に調べているとしたうえで「個別の案件についてはそれ以上言えない」と答えた。

どこかの国の国会答弁を思わせる返答に、私は苦笑いした。ただ、このやりとりから推察できることもある。ノーベル賞選考で「ノミネーション」とは、選考母体が世界中から募る受賞候補の「推薦」を指す。その締め切りは1月末だ。今年の1月を振り返ると、新型コロナウイルス感染症のワクチン、とくにファイザー製やモデルナ製のメッセンジャーRNA型は接種がまだそれほど広まっていなかった。推薦が間に合わなかったのかもしれない。

では、今回のプレスリリースを見てみよう。冒頭「私たちが寒暖や接触を感じとる能力は生存にとって欠かせない」と切りだし、温度や圧力が知覚されるときに「神経の活動電位がどう引き起こされるのか」という疑問に答えたのが今年の受賞者だという。

それは、こういうことだ。神経細胞の膜に電気を帯びた粒子(イオン)を通す部位があり、温度や圧力の刺激によって、その通り道が開いたり閉じたりして神経細胞内の電位が変わる。これが温度や接触の「受容体」であり、温度センサーや触覚センサーの役目を果たしている。前者を見つけたのがジュリアス、後者の発見者がパタプティアン。いずれも遺伝子レベルにまでさかのぼって、これら受容体の正体を見極めている。

プレスリリースは、二人の研究について実験の細部に立ち入って詳述しているが、それをなぞることは控える。むしろコロナの年になぜ……という違和感に抗するように、ノーベル賞がその妥当性を主張しているように見える箇所を押さえておこう。

たとえば、「人類が直面する大きな謎の一つは、私たちが環境をどのように感じとっているかということだ」で始まる段落。「夏の暑い日、裸足で芝生の上を歩いていると想像してみよう」と呼びかけ、日差しの熱さや風の愛撫、足裏を切るような芝の痛さを詩文のように列挙する。そして、これらは人間が「常に変わりつづける周りの状況に適応するために必要不可欠」であるとして、感覚の生理学を全人的な人間探究の一つに位置づける。

ダメ押しは、フランス17世紀の哲学者ルネ・デカルトの登場だ。デカルトは人間の感覚をめぐる考察で、皮膚の各部は「糸」で脳につながっていると予想した。足先が焚火の炎に触れたとすれば、アツッという信号が「糸」を通じて脳に伝わる、というわけだ。プレスリリースは、この話がデカルトの著書『人間論』に出ていることを紹介する。受賞研究の源流を引っぱりだして、現代科学に史的な厚みを加えようという演出が見てとれる。

毎年思うことだが、ノーベル賞には欧州人からの伝言が込められている。今年の物理学賞には地球環境への危機意識が感じとれる。医学生理学賞からは自然科学を哲学の座標に置こうという姿勢が見てとれる。だから私たちは、この賞を一冊の本を読むように味わうのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月8日公開、通算595回
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オセローという欧州多様性の葛藤

今週の書物/
『新訳 オセロー』
ウィリアム・シェイクスピア作、河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊

オセロ

欧州は欧州だ。自己完結している。私たちは、そんな偏見から逃れられない。たとえば、欧州史といえば、古代のギリシャ・ローマ→中世のキリスト教→近世の絶対王政→近代の市民社会という図式が頭に浮かび、これは内発的な史的展開だと思いがちだ。

だが欧州も、折々に外から影響を受けている。11世紀から十字軍が中東に遠征して、イスラム世界と衝突した。13世紀には北東アジアからモンゴル帝国の西進があり、次いで小アジアからオスマン帝国が地中海一帯に進出してきた。15世紀に始まる大航海時代、今度は欧州人が支配域を広げ、世界中から多様な物品を取り込んだ。ティーを午後に楽しむのも、ポテトを主食並みの食材としているのも、この外部との接触があったからだ。

で、今週はさっそく本の話に入る。とりあげるのは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『新訳 オセロー』(河合祥一郎訳、角川文庫、2018年刊)。沙翁(1564~1616)作品では四大悲劇の一つとされている。訳者あとがきによれば、原著初版が世に出たのは1622年。作者没後のことである。ただ、同じ作品と思われる芝居が1604年に上演されたという記録がある。この事実から、作者が執筆したのは1603~04年だろうとみられている。

1604年の上演記録にある題名は『ヴェニスのムーア人』。出版時の表題も『ヴェニスのムーア人オセローの悲劇』だった。「ムーア人」は、欧州人がアフリカ北西部の人々を指して言う言葉だ。この作品は、欧州人にとって異世界の人物を主人公にしているのである。

もう一つ押さえておきたいのは、これがどこの話か、ということだ。1カ所は、原題にある通り都市国家ヴェニス(ヴェネチア)だが、そこだけではない。全5幕のうち、ヴェニスの部は第1幕だけで、残りは地中海のキプロス島を舞台にしている。ヴェニスは1570年代、東方貿易の窓口であるキプロスをめぐってオスマン帝国と争い、現地に派兵していた。そのころの出来事らしい。ここでも作品は、異世界に片足を突っ込んでいる。

主人公オセローはムーア人だが、ヴェニスで勇敢さが買われ、「将軍」の要職に就いていた。対オスマンのいくさでは最前線のキプロスに赴くことになる。ヴェニスは東方の異邦人と戦うとき、南方の異邦人を指揮官に押し立てたのである。もちろん、この筋書きはフィクションだ。ただ心にとめておきたいのは、欧州では近世であっても、異民族が交じり合う物語が成り立ったということだ。半面、そこに摩擦も起こるわけだが……。

異文化摩擦の話に先立って、登場人物を素描しておこう。オセローは少年時代、奴隷に売られたこともある苦労人で、7歳の頃から戦場に出ていたという生粋の軍人だ。デズデモーナは、その妻になる人。ヴェニスの元老院議員ブラバンショーの娘で、オセローと恋に落ちた。オセローの旗手を務める軍人がイアーゴー。副官の座を争う出世競争でキャシオーという優男に敗れ、不満が募っている。そこで、いろいろと悪知恵を働かせる。

その悪巧みに巻き込まれ、そうとは知らず、手を貸してしまう人もいる。一人はイアーゴーの妻エミーリア。デズデモーナに仕えて、身の回りの世話をしている。もう一人はイアーゴーの友人、ロダリーゴー。デズデモーナに思いを寄せていた青年だ。

ここでは第一幕だけを紹介しておこう。第一場の冒頭では、イアーゴーがロダリーゴーを相手に、キャシオー抜擢の副官人事を腐し、自分にはオセローを敬愛する理由がないことを言い募っている。ロダリーゴーが「じゃあ部下なんか辞めちゃえば?」とけしかけると、「まあ、落ち着け」とたしなめる。「勤めはきちんとやってみせるが、心は自分のことに向ける連中もいる」「俺もその一人ってわけだ」――面従腹背の構えである。

イアーゴーとロダリーゴーは連れだって、ブラバンショーの邸にやって来る。二人は、夜更けだというのに「おーい」「起きろ、おーい」と大声をあげる。ブラバンショーが二階の窓辺に姿を現すと、イアーゴーは衝撃のニュースを告げる。オセローとデズデモーナが今まさに結ばれようとしている、というのだ。ブラバンショーは当初真に受けなかったが、邸内を探してみると娘の姿がない。「本当だった。何ということだ」と打ちのめされる。

こうして第二場では、オセローとブラバンショーが対面する。第三場では、公爵が元老院議員を召集して開く「閣議」で、オセローが「トルコ軍征伐」に派遣されることが決まる。デズデモーナも本人の強い意思があって、夫に同行することになるのだが……。

この戯曲には、今の私たちから見れば不適切な表現が多出している。「肌の色の違いによる人種差別」があからさまで「『白』を表す語(fair)が『美しさ』や『公平性』を表した一方、『黒』という色には『腹黒さ』や『穢れ』などの否定的な意味が籠められることが多かった」と、「訳者あとがき」にもある。訳者は「こうした当時の強烈な差別意識を理解したうえでなければ」「この作品の本質に迫ることはできない」と言う。

気は進まないが、本稿もその一端に触れておこう。第一幕第一場で、イアーゴーがオセローとデズデモーナの恋についてブラバンショーに告げ口するときの表現は「たった今、まさに今、老いた黒羊が/あんたの白い雌羊にまたがってる」(/は改行、以下も)。別の箇所でも、イアーゴーはオセローを「アフリカ産の馬」と揶揄している。当時の欧州社会に、対岸アフリカの肌が暗色の人々に対する差別意識があったことは歴然だ。

第一幕第二場でブラバンショーがオセローに投げつける罵りも、この差別意識に根ざしている。デズデモーナは「魔法」でもかけられなければ「ヴェニスの裕福な巻毛の美男子たちとの/縁談を断り」「貴様のような男の真っ黒な胸に――/喜びでなく恐怖へと――飛び込むはずがない」。娘がオセローになびいたのは「悪魔の力」のせい、と断ずるのだ。オセローの肌の色を異質なものとして嫌うだけでなく、悪魔に結びつけて排除しようとする。

この戯曲の凄いのは、その差別社会にオセローが毅然と対峙することだ。閣議の席で公爵から弁明を促されて、こう言う――。自分がデズデモーナを父親のもとから「連れ去った」のは事実であり、すでに「結婚」もしている。「私の罪はそれがすべてであり、それ以上では/ありません」と言い切る。そして、「私の情熱の罪」を「白状しましょう」と切りだして、自分がどのようにしてデズデモーナの心をつかんだのかを打ち明けるのだ。

その弁明によれば、オセローはデズデモーナに自身の身の上話を聞かせた。戦場で命拾いしたこと、奴隷となったが救いだされたこと、あちこち旅して洞窟や砂漠や山岳を回ったこと。「若かりし日の苦労を話しては、/しばしばその目から涙を絞りました」。それでデズデモーナは心を動かされ「私がくぐってきた危険ゆえに私を愛してくれる」。これが「魔法のすべて」というのだ。巧妙にも「魔法」という言葉を逆手にとっている。

まもなく、デズデモーナもこの場にやって来る。オセローが呼ぶように頼んだのだ。彼女は言う。「私がムーア様を愛し、共に暮らしたいと/思っておりますことは、後先顧みぬ私の/奔放な振る舞いで世間に知れました」。自身の意思で「ムーア様」、即ちオセローと結ばれたことを公言したのである。さらに「夫の名誉ある武勲」に「わが魂と運命を捧げております」と言って、自分もオセローとともに戦地へ行きたいと申し出る――。

閣議のくだりでは、ぜひとも引用したい台詞がある。公爵がオセローに弁明を求めたとき、それに同調する元老院議員が発した問いだ。「君は、この若い娘御の愛情を/密かに捻じ曲げ、毒で抑えつけたのか?/それとも、心を通わす会話をして/愛してもらうようになったのか」。これは、オセローの告白を先回りしている。異文化の間にも心の通いあいがあり、恋愛は成立する――そう考える人も16世紀の欧州にいたということだろう。

この戯曲を読んで思うのは、欧州の二重性だ。そこにはかつて、肌の色の異なる人を異種の動物であるかのようにみなす苛烈な差別社会があった。だが一方では、そういう異邦人を――キリスト教に改宗していたということもあるのだろうが――高位の職に登用する度量があった。それだけではない。異邦人が自らの心模様を語るとき、それに耳を傾ける人もいた。近代の価値観が確立する前の時代であっても、異文化共存の芽はあったのだ。

この戯曲は、後段で悲劇に転じる。きっかけは、オセローがイアーゴーの奸計によって、自分はヴェニス社会では「他者」に過ぎないと思わされたこと、と訳者は分析している。私自身はそうは感じなかったのだが、この悲劇はやはり異文化摩擦の帰結だったのか?
*引用箇所にあるルビは原則として省いた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月1日公開、通算594回
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疫病で人類が入れかわるという話

今週の書物/
『赤死病』
ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳、白水uブックス、2020年刊

アフターコロナという言葉をよく耳にする。だが、ワクチンが登場すればウイルスも変異する、というイタチごっこを見ていると、人と人とが距離を置くこと以外に鉄壁の感染予防策が見当たらない病に本当のアフターはあるのだろうか、と思ってしまう。

とはいえ、コロナ禍もいつかは収束するだろう。収まり方には、いくつかのパターンが考えられる。一つは、ウイルスの主流が人間の生命を脅かさない平和共存型に変わっていくという筋書きだ。ウイルスは感染先の生体のしくみを借用して増殖するので、その生体が安泰であるほうが都合よい。だから、この筋書きは十分にありうると思うが、それには進化論的な時間がかかる。ウイルスの世界では進化の所要時間が短いことを願うばかりだ。

もう一つ、治療用の特効薬が現れて、この感染症がふつうの病気になるという道筋もある。人類は20世紀後半、生命の遺伝情報をDNA(デオキシリボ核酸)やRNA(リボ核酸)の塩基配列として読み取ることを覚えた。今の科学者は、新型コロナウイルスの塩基配列を見極めている。病原体の正体を見抜いているということだ。だから、特効薬の開発は大いに期待できるが、それにどのくらいの歳月がかかるかはわからない。

最悪のシナリオもある。ウイルスが邪悪なものへ変異することだ。さきほど、ウイルスの主流が平和共存型になる可能性があると言ったのは、あくまで長い目で見たときのことだ。遺伝子の変異は偶然に左右されるから、短期的には悪い方向に向かうこともある――。

で、今週は『赤死病』(ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳、白水uブックス、2020年刊)から、表題作の中編小説を読む。著者(1876~1916)は米国サンフランシスコ生まれの作家。『野性の呼び声』(『荒野の呼び声』の邦題も)など、大自然を舞台とする作品が有名だが、社会派でもある。自身も缶詰工場で働き、漁船に乗り組み、新聞の特派員になるなど多彩な職種を経験した。日露戦争のころ、日本にも取材で訪れている。

この本は、その社会派としての一面が感じられる作品を収めている。人類の行方に思いをめぐらせたSF風小説2編とエッセイ1編。表題作は2010年に単行本(新樹社刊)として邦訳されたものが底本だが、原著は1910年に発表されている。だが、小説の時代設定は2073年。一人の老いた男が孫たちに60年前、2013年に勃発した疫病禍について語るという仕掛けだ。コロナ禍の到来を100年前から見抜いていたようにも思えるではないか。

その疫病が、赤死病(scarlet plague)である。2013年夏、ニューヨークに「わけのわからない病気」が出現する。その病態を老人の話をもとに描けば、こうなる。患者は、鼓動が速まり発熱、顔面や体表に「まっ赤な発疹が」「野火のように広がる」。痙攣が起こり、それが収まったかと思うと、しびれが下半身から上半身に昇ってきて「心臓の高さにまで達したとき、そいつは死んでしまう」。この間、わずか15分ほど、という速さだ。

同じように文学作品が想定した架空の病として、すぐに思い浮かぶのは「チェン氏病」だ。カレル・チャペックの戯曲『白い病』(阿部賢一訳、岩波文庫)に出てくる。皮膚に「大理石のような白斑」が現れ、死に至ることが多いという疫病だった(当欄2021年7月9日付「チャペックの疫病禍を冷静に読む」)。ただ、その「白い病」発表は1937年。1918~19年のスペイン風邪大流行よりも後だ。「赤死病」の着想は、それよりも早い。

書きだしの一文に「道は、その昔盛り土をして鉄道線路が走っていたところに続いていた」とある。一瞬、赤字ローカル線の廃線敷が見えてきたのかな、とも思う。だが、登場人物のいでたちを知って、ローカルな問題ではないとわかる。体を覆っている「衣服」が、老人は「やぎの皮」、少年は「熊の皮」。まるで原始人ではないか。少年は眼光鋭く、嗅覚も聴覚も敏感のようだ。実際、弓矢を手にしていて狩猟生活を送っているのである。

これだけの話でも読みとれるのは、この作品では、2013年の赤死病禍によって世界の風景が一変したということだ。ビフォーには工業化社会があった。ところが、赤死病禍をくぐり抜けると人類史は初期化され、アフターでは原始生活に戻ってしまう――。

冒頭に廃線敷を振ったのは、作品が構想されたのが20世紀初めだったからだろう。著者が100年先を見通して2013年の文明を代表するものとして思い描けたのは、鉄道くらいだったということだ。ただ、現実に2013年を通過した私たちにとって鉄道は古すぎる。

私たちが今、2013年を象徴するものは何だったかと訊かれれば、まちがいなくスマートフォンと答えるだろう。悪趣味になるが、作品冒頭の文をそっくり書き換えればこうなる。「道端のあちこちに横たわる白骨死体の手には、なぜか決まって板切れのような物体が握られていた」――。この100年余の文明の飛躍は大きい。100年前にはIT(情報技術)やAI(人工知能)に支えられた社会など、想像すらできなかっただろう。

ただ、著者も現代技術の一端を先取りしている。老人は2013年の世情を語るなかで「空には飛行船があった――気球や航空機が」と言っている。ライト兄弟の初飛行が1903年だから、飛行機は執筆時にもあったが、それが空を賑わすことまで予想していたのである。

ITへの流れも予感していたように見える。老人によれば、赤死病禍がニューヨークで勃発したというニュースは「無線電報」で広まった。これは、新聞の電信記事を指しているのだろう。「その頃、わしらは空中を通じて話をしておった。何千マイルも離れてな」

著者は、現実の2010年代の様相をある程度取り込んでいたとみるべきだろう。この作品では、凶悪な疫病禍が人類を初期化したわけだが、同じ構図が現実の21世紀社会で成り立たないとはいえないのだ。人類は原始時代に引き戻されるかもしれない。そんな暗い未来図――ディストピア――にも思いをめぐらすことが、この作品の読み方の一つだ。ではまず、赤死病がなぜ、人類の初期化を起こしてしまったのかを考えてみよう。

最大の要因は、感染拡大のすさまじさにあるのだろう。この作品では、赤死病患者は死に至ると同時に死体が「見るみるうちに粉みじん」となり、飛散する。その結果、「病原菌のすべてが、たちどころに自由にされてしまう」。菌がまき散らされた後の感染経路までは説明されていないが、おそらく空気感染などで広がるのだろう。今どきの用語で言えば、実効再生産数は1を超えて途方もなく大きくなっていたに違いない。

こうして、人類は絶滅寸前となる。老人は「わしの見当では、現在の世界の人口は三百五十から四百人」と言う。米西海岸に散在する部族の規模から推し量った人数だ。米東部からは「何の消息や気配も届いていない」。老人にとって「少年時代や青年の頃に知っておった世界は、もうなくなってしまった」のである。現代人らしい現代人は、技術文明がぷっつり途絶えるとともに姿を消した。いわば、人類がそっくり入れかわったと言ってもよい。

人類が初期化されると、技術文明を失うだけではない。老人が、自分は2013年当時カリフォルニア大学バークリー校の教授で、英文学の講義をしていたという話をすると、孫の一人が「ただ喋って、喋って、喋るばっかりだったのか?」と訊いてくる。愕然とするのは、次のひとことだ。「誰がじいさんのために肉を狩りに行ったんだ?」――人類が歴史を刻むたびに強めてきた分業体制の概念が、ここではまったく通用しなくなっている。

老人は分業社会を批判的に説明する。「わしら支配階級の者が、すべての土地、すべての機械、何もかもことごとく所有しておった」「食べ物を手に入れる者たちは、わしらの奴隷だった」。著者は社会主義を支持していたから、原始共産制への共感がこう言わせたのか。

人類の初期化では、人間の世界観もやせ細ってしまう。そのことを痛感する場面もある。老人が赤死病について縷々語っていると、孫の一人が「その病原菌ってやつを見れやしないんだろ、じいさん」とツッコミを入れ、「見れないものなど、ありゃあしねえ」と畳みかけてくる。原始の世界観では、見えるもの、聞こえるもの、におうもの、触れるもの、味がするものだけが頼りだ。知的作業で世界を押しひろげることができない。

本稿のまくらにも書いたように、私たちは今、コロナ禍の病原体を突きとめている。それは、細菌よりもずっと小さなウイルスだ。当然、肉眼では「見れない」(ら抜きを改めれば「見られない」)が、電子顕微鏡で可視化できる。それだけでなく、その遺伝情報まで解読できるようになった。これは、人類が蓄積してきた知の成果といえる。ただ、もしも絶滅寸前にまで追い込まれれば、同じ知をもう一度、最初から積みあげなくてはならない。

新型コロナウイルスがさらに邪悪な方向へ変異して、万一、感染の拡大速度や致死率が赤死病並みになれば、そんな最悪の事態すら想定しなくてはならなくなる。私たちの行く手に人類史的な難所が待ち受けていないとも限らないのだ。そのことは心にとめておきたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月24日公開、通算593回
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量子のアルプス、「波」の登山路

今週の書物/
『量子力学の誕生』(ニールス・ボーア論文集2
ニールス・ボーア著、山本義隆編訳、岩波文庫、2000年刊

波打つ紐

1995年の春から夏にかけて、私が駐在先のロンドンを拠点に欧州各地で「量子」の取材に駆けまわっていたとき、めぐり合わせの妙を感じるような出来事がいくつかあった。取材相手から「あの人にも取材してみたら」と助言を受ける。それでさっそく、その人に連絡して面会の約束をとりつける。このような数珠つなぎで取材範囲を広げていったのだから、そもそも偶然に左右される。めぐり合わせの妙があっても不思議はない。

なかでも、もっとも心に残ったのは、シュレーディンガーとの「出会い」だ。オーストリアの物理学者エルウィン・シュレーディンガー(1887~1961)は1920年代半ばに量子力学を築いた人。もう一人の建設者、ドイツのウェルナー・ハイゼンベルク(当欄先週9月10日付「量子力学の正体にもう一歩迫る」)とは別の手法で量子世界を表現した。その人は今、チロリアン・アルプスの山あいの小村アルプバッハで永眠している。

だから、「出会い」とは、その墓に参ったことを意味する。オーストリアのインスブルック大学で量子物理学者アントン・ツァイリンガー教授に取材したとき、教授から勧められたのだ。「せっかくここまで来たのだから、アルプバッハまで足を延ばしたらいい。あそこにはシュレーディンガーの墓があるよ」――それでインスブルックから列車に小一時間揺られ、最寄り駅からタクシーに乗って、その村にたどり着いたのである。

アルプバッハは、シュレーディンガー晩年の避暑地だ。私はそこで、彼の娘ルート・ブラウニツァーさんに会った。そのときの様子は拙著『量子論の宿題は解けるか』(講談社ブルーバックス、1997年刊)に書きとめている。ここではそれには触れず、話を墓に絞ろう。

私はルートさんに会う前、教会裏の墓地を訪ねたが、このとき、シュレーディンガーの墓所に墓標がなかったのである。これは驚きであり、落胆でもあった。ツァイリンガー教授からは、墓標にψ(プサイ)の文字があると聞いていた。ψは、シュレーディンガー流の量子力学には欠かせない波動関数の記号だ。量子力学の象徴である。それを写真に収めようと思ったのに、そこにない。いろいろ聞きまわると、墓標は塗り替え中とわかった。

あの日のことを思いだして、量子力学は逃げ水のようだな、とつくづく思う。それを私は青年期に学生として捕らえそこね、中年になって科学記者として捕まえようとしていたわけだが、やはり正体を突きとめられなかった。量子力学をめぐる動きを概観することはできたが、量子力学そのものは依然、難解の極みだったのだ。シュレーディンガーの墓標がたまたま不在だったというめぐり合せは、そんな挫折感と響きあっている。

で、今週も引きつづき『量子力学の誕生』(ニールス・ボーア著、山本義隆編訳、岩波文庫「ニールス・ボーア論文集2」、2000年刊)。前回は著者がハイゼンベルク流の量子力学をどう素描したかに焦点を当てたが、今回はシュレーディンガー流に目を向けよう。

物理に馴染みの薄い方に申しあげておきたいのは、シュレーディンガー流はハイゼンベルク流よりも私たち学生にとっつきやすかったことだ。ハイゼンベルクの行列はほとんど数式の世界だが、シュレーディンガーの波動方程式には波のイメージが伴う。たとえば、電子の状態も波としてとらえられるのだ。方程式は、その波が時の流れとともに変わる様子を表しているのだから、古典物理の運動方程式にとって代わるものとして受容できる。

量子力学の理解を山登りに見立てるならば、シュレーディンガーが切りひらいた登山路のほうが、ハイゼンベルクのそれよりも初心者向きに思われたのである。

このことは本書で著者も語っている。「原子論と自然記述の諸原理」(1929年)では、ハイゼンベルク流が「私たちに多大な抽象能力を要求する」ことを認め、「私たちの直観性の要求にもよりよく応えている〔ハイゼンベルクのものとは異なる〕新しい行き方の発見」に「計り知れない重要な意味」がある、としている(〔 〕内は訳者による)。「新しい行き方」を見いだしたとされるのが、ルイ・ド・ブロイ(フランス)とシュレーディンガーだ。

1924年、ド・ブロイは電子のような粒子にも「波」の顔があることを量子論の見地から理論づけた(当欄2021年6月4日付「量子力学のリョ、実存に出会う」)。これを「物質波」という。著者によれば、シュレーディンガーは、その理論をさらに先へ進めた。物質波の概念が「定常状態を理解するうえできわめて有効である」と示したのである。ここで「定常状態」とは、原子核の周りの電子がとる運動状態などを指している。

そんな電子の定常状態は複数あって、一つの状態から別の状態へ特定のエネルギーをやりとりしてぴょんと乗り移る(当欄2021年5月28日付「量子の世界に一歩踏み込む」)。これらの定常状態には、エネルギーの小さいほうから「量子数」という番号が振られている。著者は、電子を物質波とみる考え方に立てば「定常状態の量子数は、その状態を記号的に表現している定常波の節(ふし)の数として解釈されます」と説明するのだ。

それで思いだしたのが、学生時代に教師が黒板に描いた模式図だ。波打つ紐のような線が原子核をぐるりと囲んでいた。その波は進んでいるように見えない。定常波、あるいは定在波と呼ばれるゆえんだ。さて、その定常波には、ところどころに振動しない点、即ち「節」がいくつかある。一つめの節を起点として輪をひと回りすると、必ず、その節に戻ってくる。これが定常波の条件である。1周当たりの「節」の数は整数しかありえない。

定常波の節の数が1、2、3……とふえていくというのは、定常状態のエネルギーがとびとびの値をとるという著者の量子論に通じている。原子核の周りに縄跳びの紐を張りめぐらせて、それをぶるぶる震わせるというイメージは、日常の感覚でも思い描くことができる。電子とは、そんな振動のようなものだと思ってしまえば、量子力学の世界像はひとまず完結する。シュレーディンガーの功績は大きかったと言ってよい。

物質波が優れものであることを、著者は「化学と原子構造の量子論」(1930年)という一編でも強調している。ド・ブロイの理論によれば、物質波の振動数と波長は物質粒子のエネルギーと運動量にそれぞれ対応している。振動数は粒子のエネルギーからはじき出せるし、波長は粒子の運動量から算出できるのだ。物質波は、物質粒子の運動状態を反映していると言ってよい。しかも驚くべきことに、その波の存在は実験でも支持されたのである。

この一編で例示されている実験は電子線回折だ。電磁波の一種であるX線には物質に照射したときに回折するという現象があり、それによって物質の結晶構造を調べることができる。同様に「電子線の回折は、有機物質の分子構造の研究にさえたいへんに役だつことが最近になって判明しました」と著者は言う。1928年のことである。電子も、間違いなく波の側面を併せもっているのだ。物質波はまったくの仮想の産物ではない。

ただ、著者は釘を刺すことも忘れない。物質波という概念の効能を認めて「電子の振る舞いを説明するにあたって波動像がなみはずれて有効」としつつ、その波動像に「物質媒質中での通常の波動の伝播」や「電磁波における非物質的エネルギー移動」が見てとれないことを書き添えている。音波や電波とは似て非なるものなのだ。では、私たちは物質波をどのような存在として受けとめたらよいのか? ただただ、途方にくれてしまう。

その答えらしきものも、この一編にはある。著者は、「電子の波動的性質」の表れである「物質波」を、「光の粒子的性質」の表れといえる「光子」とひとくくりにして、こう言う。「古典物理学の表象をもちいてはそれ以上分析することのできない要素的過程の出現を支配している確率法則の定式化に役だつ記号なのです」。量子世界を確率論的に語るための道具なのか。だが、電子線回折には実在感が見てとれる。ただの「記号」とは思えない。

物質波を取り込んだ波動力学は、たしかに古典物理学の枠組みに収まり切らない。著者は本書の「ラザフォード記念講演――核科学の創始者の追憶とその業績にもとづくいくつかの発展の回想」(1958年)で2点に注意を促している。一つは、物理系の状態を表す波動関数に虚数を使わざるを得ないこと、もう一つは、物理系が複数の粒子を含むときは波動関数が実空間ではなく、系全体の自由度と同じ次元数の「配位空間」に置かれることだ。

虚数、「配位空間」……。シュレーディンガー流がとっつきやすそうに見えてとらえどころがない理由は、そこにもある。あの日、アルプスの村で彼の墓標が私の前から姿を消したのも、量子力学はそんなに甘くないぞ、という戒めのように思われてきた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月17日公開、同月22日更新、通算592回
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