「識者」ファインマンの闘いに学ぶ

「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」
=『困ります、ファインマンさん』(リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊)所収

氷水

コロナ禍で問われているのは、専門家と政治家の関係だ。政治家は、次の一手を聞かれると「専門家の意見をうかがって決める」と言う。ところが実際には、その真意を汲みとらないことがままある。都合のよいところだけつまみ食いしたりするのだ。

専門家という言葉にも罠がある。専門家とは、特定の分野に通じた人のこと。だから、A分野のことを聴きたければ、Aの専門家を集めなければならない。B分野ならB、C分野ならCだ。ところが現実にはA、B、Cの専門家が一堂に会して、バランスよく結論をまとめることになる。これは、専門家というよりも有識者の集団だ。世論が二分される問題で合意点を探るのなら話は別だが、危機に直面して専門知を求めているときには不向きだ。

去年夏、コロナ対策をめぐって医療か経済かという二項対立が際立ったとき、私は朝日新聞の言論ウェブサイト「論座」(2020年7月24日付)に「コロナ対策、いま必要なのは『識者会議』か?」という論考を書いた。必要なのは「分科会」という名の識者会議ではなく、政策判断に直接の助言を与える実働集団だ。医療系、経済系それぞれの専門家集団が連携して、人々の接触機会の節減目標などを試算すべきではないか、と主張したのである。

1年たって、状況は変わった。医療か経済かの二項対立は薄れ、医療崩壊を抑えることが経済回復への近道との見方が広まっている。その結果、専門家の声がまとまりやすくなり、政府を動かす局面もあった。だが、事がオリンピック・パラリンピックの開催にかかわるとなると、政府はかたくな。専門家の意見をつまみ食いして済まそうとしている気配が濃厚だ。再び、識者会議の弱点を見せつけているとは言えないだろうか。

そんなことを考えていたら、この話にも例外があることに気づいた。識者として呼ばれ、おそらくは大所高所の議論だけを求められていたのに、自ら実働集団の役目まで果たした人がいた。米国の理論物理学者リチャード・P・ファインマン(1918~1988)である。

で、今週は「ファインマン氏、ワシントンに行く――チャレンジャー号爆発事故調査のいきさつ」(『困ります、ファインマンさん』〈リチャード・P・ファインマン著、大貫昌子訳、岩波現代文庫、2001年刊〉所収)。著者は、素粒子論など理論物理学が専門。1965年、朝永振一郎らとともにノーベル物理学賞を受けた。この一編は1986年、スペースシャトル・チャレンジャー事故の調査を担う大統領委員会に加わったときの体験記である。

事故は1986年1月、チャレンジャーの打ち上げ直後に起こった。爆発で機体は壊れ、乗組員7人は帰らぬ人となった。固体燃料ロケットの継ぎ目付近に欠陥があったことが、しだいにわかってくる。その事故を調べたのが、この委員会だ。委員長は元国務長官のウィリアム・ロジャーズ弁護士。委員13人の大半は理系で、軍人や雑誌編集者もいる。だから、専門家会議というよりも識者会議に近い。著者も、宇宙工学のことでは門外漢だった。

委員会は、この年の6月まで続き、最終報告書をまとめた。そこでは、著者自身の「報告」が「付録」扱いとなった。いわば、少数意見の併記。著者は持論を譲らなかったということだ。委員会では、その存在感をフルに発揮したのだとも言えよう。

著者の委員としての動き方を知って敬意を禁じ得ないのは、二つのことだ。一つは、自分は専門家ではない、と強く認識していること。もう一つは、にもかかわらず、いや、だからこそ、専門家の話を遠慮することなく聴きまくっていることだ。

それは、事前準備の段階から見てとれる。著者は2月上旬、初会合のために夜行便でワシントンへ向かう当日、地元パサデナで動きだす。勤め先のカリフォルニア工科大学は、米航空宇宙局(NASA)の研究を担うジェット推進研究所(JPL)を運営している。そこで、シャトルに詳しい技師の一人ひとりから、知っていることを洗いざらい聞きだしたという。「とにかく彼らはシャトルのことなら隅から隅まで知りぬいていた」と驚嘆している。

このときに書きとめたメモの2行目に「Oリングに焦げ跡を発見」とある。「Oリング」は、問題の継ぎ目部分にぐるりと巻かれた合成ゴムの密封材だ。チャレンジャー事故の調査でにわかに世に知られるようになった。朝日新聞の当時の報道では、大統領委員会でも2月中旬に「Oリング」という用語が登場しているが、著者はそれに先だって、Oリングがシャトルの要注意箇所らしいとの知識を自前の聞き込みで仕入れていたのである。

Oリングに目をつけた委員の一人に空軍高官のドナルド・クティナ氏もいる。初会合の日、地下鉄で職場に帰ろうとしている姿を見て「運転手つきの特別車なんぞにふんぞり返って乗りたがる軍人どもとは大違いだ」と著者は好感を抱く。こうして二人は仲良くなる。

ある日、そのクティナ氏から電話がかかってくる。「実は今朝、車のキャブレターをいじっているうちにひょいと思いついたんですがね」「先生は物理の教授でしょう。いったい寒さはOリングにどんな影響を及ぼすものですか?」(太字箇所に傍点)。事故は極寒の日に起こっているから「目のつけどころ」の良い質問だ。著者は「硬くなるはず」と即答した。それにしても、車をガチャガチャやっているときに頭が冴えるとは米国人らしい。

Oリングについては、著者自身の武勇伝もある。委員会の席で実験をやってのけたのだ。同様のゴム材を手に入れ、工具で締めつけて氷水に浸けた。しばらくして水から取りだすと、工具を外しても形が元に戻らない。「この物質は三二度(セ氏〇度)の温度のときには、一、二秒どころかもっと長い間弾力を失うということです」。余談だが、この日は前回の会議で委員席に置かれていた氷入りの水が配られておらず、あわてて注文したという。

こうして、Oリングの低温による硬化が密封機能を弱め、事故の引きがねになったことがわかってくる。これは著者の手柄話のように巷間伝えられたが、この体験記は、それもクティナ氏が「手がかり」をくれたからこそ、とことわっている。著者は公正な人だった。

もう一つ、著者の面目が躍如なのは、NASAがシャトル打ち上げの失敗率を低くみている事実を突きとめたことだ。技術者の一人は、それを1%(100回に1回)とはじき出していた。無人ロケットの実績をもとに、有人飛行時の安全対策も見込んで試算したという。ところがNASA上層部は、失敗は「10万回に1回」と言い張った。これだと1日1回打ち上げても300年間は成功が続くことになる、と著者はあきれる。

ちなみにこの技術者は、シャトルが上空で制御不能になる事態を想定して、墜落による地上の被害を小さくするために機体を爆破する装置を積むかどうかを決める立場にあった。技術者は任務を果たすために、失敗のリスクを直視しなくてはならないのである。

理系の有識者が果たすべきは、こうした理系思考を報告や提言や答申に反映することにあるのだろう。著者は、NASAの「10万回に1回」論を追及していくが、先方も譲らない。著者が米国の宇宙開発に対して抱いた最大の違和感は、ここにあったように思う。

苦笑いしたのは、忖度というものが米国にもあることだ。著者によれば、NASAではこんなことが起こっているらしい――。シャトル計画の予算を議会で通すには、それが安全で経済的であると言わなくてはならない。だから、上層部は「そんなに何回も飛べるわけがありません」という現場の声を聞いたとたん、議会で嘘をつく立場に追い込まれることになる。現場は、上層部から疎ましがられたくないから黙る。これが、NASA版の忖度だ。

2年後、著者は永眠した。素粒子だけでなく、官僚の振る舞いまで見抜いた最晩年だった。有識者とはこういう人を言うのだろう。お見事ですね、ファインマンさん!
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月25日公開、同年7月9日更新、同月9日更新、通算580回
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五輪はかつて自由に語られた

今週の書物/
『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』
石井正己編、河出書房新社、2014年刊

五つの輪

日本列島には1億人余が暮らしている。今この瞬間も、喜んでいる人がいれば、悲しみにくれている人もいる。どこかで結婚式があれば、別のどこかで葬式も同時進行中だ。世に明と暗が共存することは、私たちが受け入れなければならない現実だろう。

ただ、それは結婚式と葬式の話だ。いずれも私的な行事だから、世にあまねく影響を与えることはない。だが、明暗の一対がオリンピック・パラリンピック(オリパラ)とパンデミック(疫病禍)となると事情が違ってくる。人類の祝祭が、世界中の人々の生命を脅かすわざわいの最中に催されようとしているのだ。オリパラがもたらす歓喜も、疫病禍に起因する苦難や悲嘆も、すべて公的な領域にある。私的明暗の同時進行とは質が異なる。

国内ではこのところずっと、今夏のオリパラが論争の的になっている。1年の延期でコロナ禍制圧を祝う機会になる、という楽観論が見当違いとわかったからだ。開催の是非をめぐっては、いくつかの模範解答があった。たとえば、選手の思いを第一に考えるべきだという主張。あるいは、開催の可否は科学の判断に委ねるべきだという意見。いずれも、もっともだ。ただ、私たちが考慮すべきは「選手の思い」と「科学の判断」だけではない。

第一に、オリパラがただのスポーツ大会ではないとの認識は、五輪誘致派の間に当初からあったのではないか。それは、震災からの復興と関係づけられたり、外国人観光客需要を押しあげるとして期待されたりした。五輪は、社会心理や経済活動と密接不可分なのだ。

第二に、オリパラ開催を科学で決める、という話も一筋縄ではいかない。科学の視点で言えば、コロナ禍を抑え込むには人流を減らすのがよいに決まっている。正解は、中止か延期しかないだろう。だが、実際には開催を前提にして感染制御策を立案することにとどまりがちだ。前提条件に、すでに政治的、経済的な思惑が紛れ込んでいる。政治家はそのことに触れず、科学者に諮ったという手続きだけをもって「科学の判断」を仰いだと言い繕う。

昨今のオリパラ問題は小学校の科目にたとえると、こうなる。体育が中心にあるのだが、その枠に収まりきらない。理科に関係しているが、理科が答えを出してくれるわけでもない。実際のところは、社会科の時間に考えるべき論題がいっぱい詰まっているのだ。本稿冒頭の話題も、あえて言えば社会科の守備範囲だ。公的な災厄のさなかに公的な祝祭に心躍らせられない人々が多くいるのではないか――そういう慮りがもっとあってよい。

で、今週は『1964年の東京オリンピック――「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか』(石井正己編、河出書房新社、2014年刊)。1964年の東京五輪について、新聞や雑誌に載った小説家や評論家、文化人、知識人ら総勢34人の寄稿や鼎談対談を集めている。編者は1958年生まれの国文学、民俗学の研究者。序文によれば、64年東京五輪前後の国内メディアには作家たちが次々に登場して「筆のオリンピック」の状況にあったという。

この本は大きく分けると、五輪そのものに密着した「開会式」「観戦記」「閉会式」の3部から成るが、それらに添えるかたちで「オリンピックまで」「オリンピックのさなか」「祭りのあと」という章も設けている。五輪を取り巻く世相も視野に入れているのだ。

開催まで1カ月という今この時点に同期させるという意味で、今回は「オリンピックまで」に焦点を絞ることにする。この章だけでも、井上靖、山口瞳、松本清張、丸谷才一、小田実、渡辺華子という7人の筆者が競うように感慨を綴り、持論を述べている。

あのころの平均的な日本人の心情を汲みとっていて正攻法の作家だな、と思わせるのは井上靖だ。その一文は1964年10月10日付の「毎日新聞」に掲載されたから、10日の開会式直前の心境を語ったものとみてよい。それは、4年前にローマ五輪を現地で観たときの体験から書きだされる。閉会式で、電光掲示板に浮かぶ「さようなら、東京で」という次回予告を目にした瞬間、「本当に東京で開かれるだろうか」と心配になったという。

その理由は、突飛なものではない。五輪のためには道路を整えなくてはならないし、競技場も必要だ。「果たして四年間のうちにできるだろうか」。そんな思いがあったという。ところが4年後の今、道路も競技場もできあがっている。井上は、ローマの不安が「杞憂(きゆう)だった」として、それらを仕上げた人々に素直に謝意を表す。ここで目をとめたいのは、井上が五輪の整備項目を列挙するとき、道路→競技場の順で書いていることだ。

この記述から、64年東京五輪が都市の建設事業とほぼ同義であった構図が見えてくる。

もちろん、その構図の裏側に目をやる人もいる。開催前年に書かれた山口瞳の「江分利満氏のオリンピック論」がそうだ(『月刊朝日ソノラマ』1963年10月号)。五輪は1年先だが、「オリンピックはもう終ってしまった、と考えている人もあるに違いない」。五輪にかかわる政治家や財界人、建設業者やホテル経営者の胸中には「もう予算はきまってしまった、もう何も出てこない」という認識があるはずだ、と見抜くのだ。鋭いではないか。

小田実は、五輪を間近にした東京の各所を見てまわり、その感想を寄稿している(共同通信1964年10月7日付配信、本書掲載分の底本は『東京オリンピック』=講談社編、1964年刊)。それによると、「オリンピックに関係するところ」と「しないところ」に「あまりにも明瞭な差異」があったという。五輪にかかわる場所には巨費が投じられ、新しい建築や道路が出現している。かかわりがなければ「ゴロタ石のゴロゴロ道のまま」だ。

小田は、さすが反骨の人である。世の中に、五輪という「世界の運動会」に興味がなく、「ヒルネでもしていたほうがよい」と思う人がいることを忘れない。そうした人もいてよいはずなのに、「政治」は「ヒルネ組をまるで『非国民』扱い」――そう指弾する。

ここで私がとりわけ目を惹かれたのは、こうした「政治」がジャーナリズムを巻き込んで、人々の間に「既成事実の重視」「長いものにまかれろ」という社会心理を根づかせた、と指摘していることだ。それは、「きみが反対だって、もう施設はできてしまった。こうなった以上は一億一心で」と、ささやきかけてくるという。1964年の五輪前夜、街にはそんな気分があふれ返っていたらしい。それは、オリパラ2020直前の今と共通する。

ただ、「ヒルネ組」も黙ってはいない。松本清張は『サンデー毎日』1964年9月15日臨時増刊号への寄稿で「いったい私はスポーツにはそれほどの興味はない」と冷ややかだ。自身の青春期、スポーツ好きの若者には大学出が多かったとして、「学校を出ていない私」はスポーツに無縁だったことを打ち明ける。「何かの理由で、東京オリンピックが中止になったら、さぞ快いだろうなと思うくらい」。そんな異論も、あのころは堂々と言えたのだ。

丸谷才一の一編(『婦人公論』1964年10月号)は、英会話術の指南。“You won’t come up to my room?”(「君はぼくの部屋へ来ないんだね?」)と聞かれたとき、「ゆきません」のつもりで“Yes.”と答えたなら「ゆきます」の意にとられると警告、「ラジオは本当はレイディオ」など、指導は細やかだ。だが、「会話というものは言葉だけでおこなわれるものでは決してない」と「態度」「表情」などの効能も説いて、読み手を安心させている。

最後の一文は、渡辺華子が1961年7月8日付「読売新聞」に寄せた論考。彼女はその前年、ローマで五輪に続けて開かれた「国際下半身不随者オリンピック」(第1回パラリンピック)を観戦していた。それは、選手が応援の側にも回ったり、観客がどの国にも声援を送ったりで、まるで「草運動会」のよう。「対抗意識と緊張感の過剰な一般オリンピック」より「ずっと楽しかった」という。この感想は、結果として五輪批判にもなっている。

1960年代前半、東京五輪が刻々と迫るなかでも、その祝祭をめぐって、なにものにも縛られない議論がメディアで展開された。今は、型破りの論調がほとんど見当たらない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月18日公開、通算579回
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量子力学のリョ、実存に出会う

今週の書物/
『NIELS BOHR
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)

デルタエックス(文末に注)

量子ほど、科学者は馴染んでいるのに世間に通用しない言葉はない。そんなこともあるからだろう、量子をめぐってはさまざまな誤解がある。量子論=量子力学と受けとめる向きがあるが、これは正しくない。あえて不等号を用いれば量子論>量子力学となる。

量子論の元年は、ドイツの物理学者マックス・プランクが量子仮説を提案した1900年と言えよう。それは先週の当欄でも触れたように、物体が電磁波を放ったり吸い込んだりするとき、やりとりされるエネルギーがとびとびの値をとる、という仮説だった。エネルギーには、1個、2個……と数えられる塊があるというわけだ。物理学者たちは、このような塊を「量子」と呼ぶようになった。(2021年5月28日付「量子の世界に一歩踏み込む」)

量子の概念を取り込んで生まれた物理学の体系が量子力学だ。1920年代半ばに確立された。建設者としてはウェルナー・ハイゼンベルクとエルウィン・シュレーディンガーの名がまず挙がるが、欧州の物理学者群像が知を持ち寄って築いたという色彩が強い。

量子仮説の登場から量子力学の誕生までに四半世紀が過ぎている。この間に物理学者は、原子がどんなつくりになっているか、などの懸案を量子論に沿って説明しようとした。こうした試みを前期量子論という。ニールス・ボーアは前期量子論の中心人物と言ってよい。

先週とりあげた『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫=底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)は、ボーアの業績として、量子仮説を踏まえた原子模型や、量子論と古典論の折り合いをつける対応原理の提案を挙げている。当欄も前回は、この二点に的を絞った。それで幕を引こうとも思ったのだが、考えを変えた。この『傳記』がさらっと触れている量子力学のことも触れておこう。そう思い直したのだ。

この一編は、量子力学が産声をあげて間もないころに書かれた。それが誕生直後、どう受けとめられていたかを、欧州にゆかりのある物理学者が語っているのである。素通りする手はない。もう1回とりあげて、リョウシリキガクのリョくらいまでは掬いあげておこう。

読んでわかったのは、そこにある量子力学の記述が1970年代に出回っていた解説書に近いことだ。初期の解釈が数十年も健在だったということか。ところが1980年代以降、事態は大きく動く。先端技術のおかげで、量子力学のつかさどる世界が実験室で再現できるようになり、そこから新しい量子力学観が台頭したのだ。当欄は今後、この潮流を追いかけていくつもりだが、そのまえに1930年代風の見方を復習しておきたいと思う。

『傳記』本文に入ろう。著者は「量子力学の発見には、直接にボーアの手で行われた部分はない」とことわったうえで、ボーアの薫陶を受けた人々が見いだした量子力学にボーア自身がどうかかわったかを論じている。それによると、ハイゼンベルクの不確定性原理には格別の興味を抱いたらしい。自分にも似た発想があったようで、「ハイゼンベルクの思考実験中の行論を訂正し」「原理の因って来る所を明かにした」とある。

この原理によると、「正規共役」という関係にある一対の量――たとえば粒子の位置と運動量――では、「一方を測定する実験を行うと、量子論的実在にあっては其実験の為に無視し得ない影響を他方の量に与えることを避け得ない」。片方を「非常に正確に」突きとめようとすると、もう一方は「全く解らなくなって了う」。ボーアはこれを「相補性理論」と呼んで、アルバート・アインシュタインの相対性理論に対置させた、という。

量子力学の世界では、位置を見極めるか、運動量を測るか、で事態がガラッと変わる。著者の言葉によれば「観測の仕方によって現象が規定せられる」のである。これは「物は観方による」という日常の教訓に言い換えられることも書き添えられている。

このくだりには、こんな記述も見かける。「観測に於て、観測体と被観測体とが古典論の場合のように截然たる区別をつけられない」――これを読んだとき、実存主義のイメージが頭をよぎった。そういえば、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」と言い切っていた。20世紀前半、量子力学と実存主義という別分野の潮流に響きあうものがあったように私には思える。(当欄2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」)

『傳記』によれば、ボーアは量子力学がはらむ波動説と粒子説の相克も「相補性の考察」で「解決した」。光の正体は19世紀には波動と見られていたが、1905年にアインシュタインが光量子仮説を唱えたことで粒子としての側面が無視できなくなった。1920年代前半にはルイ・ド・ブロイが電子のような物質にも波動としての側面があることを理論づけた。光も物質も、波と粒の両面を併せもつことがわかったのだ。これをどう考えるか。

ボーアが、この難題と向きあうときにもちだしたのは、私たちが現象のどこに着眼するかという、視点の相補性だ。量子力学の世界では「時間空間」内の「伝播」や「運動」を議論するときは波動らしく見えるが、「エネルギー、運動量」を問題にする場合は粒子らしくなる、というのである。二つの側面は相容れないが「一方が問題となって居る時は他方は自然に姿を消して了う」。だから、両説ともそれなりに正しいことになる。

著者によれば、「時間空間」の問題で波動らしさが際立つことは、不確定性原理によって支持されている。この原理の通りなら、観測によってさまざまな状態が現れるわけだから、こうならばああなるという古典論の因果律は成り立たない。私たちには「確率が与えられるだけ」であり、因果律は「統計的結果」に反映されるだけだ。状態が統計的に散らばる様子は波として表現できる。だから、波動らしさが卓越する――なるほどそうか、と思う。

一方、「エネルギー、運動量」は量子力学でも「不滅則」に従うので古典論の因果律が成立する、と著者はみる。不滅則、即ち保存則が粒子らしさの源泉というのである。ビリヤードの球がエネルギーや運動量を保存するように転がる様子をイメージすると、なんとなくわかったような気分になるが、私は十分には納得できていない。不確定性原理は、粒子の位置を絞り込めば運動量がばらつく、と言う。このとき、運動量の保存則はどうなるのか。

この『傳記』で残念なのは、量子力学最大の謎が語られていないことだ。状態の重ね合わせである。ボーアの学派が広めたコペンハーゲン解釈によれば、量子力学の世界では複数の状態が重ね合わさることがあり、観測の瞬間にそれが一つに定まる。この解釈は、物理学徒の間では教科書の知識のように定着しているが、不自然な印象を拭えない。ボーア自身はどう考えていたのか。そのことを知るには、別の書物を探さなければなるまい。
〈注〉⊿は、ばらつきを表す記号デルタ。⊿xは位置xのばらつきを表している。
*引用では文字づかいを現代風に改め、原語で書かれた人名も片仮名表記にした。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年6月4日公開、同年7月1日最終更新、通算577回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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■公開後の更新は最小限にとどめます。

量子の世界に一歩踏み込む

今週の書物/
『NIELS BOHR
仁科芳雄著、青空文庫(底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊)

エイチバー(文末に注)

当欄は今年の年頭、実存主義にこだわった。夏目漱石の日記に「実存」を見て、ジャン-ポール・サルトルの講演を本で読んだ。さらに去年とりあげたマルクス・ガブリエルの『新実存主義』(廣瀬覚訳、岩波新書)も読み直してみた。(2021年1月8日付「漱石の実存、30分の空白」、2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」、2021年2月5日付「サルトル的実存の科学観」、2021年2月19日付「新実存をもういっぺん吟味する」)

こうしてみると、当欄のあり方として、ときに一つのテーマにこだわるのも悪くはない。昨春、新しい看板として「めぐりあう書物たち」を掲げたとき、第一には自分自身と本との出会いという意味を込めたが、内心には本同士のめぐりあいもあり、と思っていた。私がこだわりのテーマを追いかければ、そこに本同士のネットワークが生まれるかもしれない。ならば今年は、テーマをもう一つ選ぼう。それで思いついたのが量子力学である。

振り返れば量子力学は、私にとって抜くに抜けないトゲのようなものだった。学生時代に物理学を学んだが、理系職に就くことを断念したのは、量子力学につまずいたからだ。数式が何を言いたいかがわからない、わからない数式を用いて仕事はできない――。

不惑を過ぎて、私は量子力学に再会した。ロンドン駐在の科学記者だった1990年代、量子力学が再び物理学者の関心事になっている流れを知り、それを欧州各地で取材したのである。報告記事は、まず紙面に載せ(朝日新聞科学面連載「量子の時代」、1995年10~12月に10回)、さらに本にまとめた(『量子論の宿題は解けるか』講談社ブルーバックス、1997年刊)。このときに気づいたのは、量子力学は物理学者にとってもトゲだということだ。

量子力学は1920年代半ばに出来あがったが、その解釈はずっと宿題だった。何を言おうとしているかは、物理学者にもはっきりしなかったのである。ところが20世紀も押し詰まったころ、宿題の答えの手がかりが見えてきた。量子力学が露わになる世界が、極微や極低温などの先端技術によって実験室でも再現できるようになったからだ。その試みが量子コンピューターや量子暗号といった次世代技術の芽を秘めていることも研究を後押しした。

量子コンピューターや量子暗号が政治経済の記事にも登場するようになった昨今の状況に接して、一つ残念に思うのは、その技術と表裏の関係にある量子力学の解釈問題が置き去りにされていることだ。そんなことは技術革新と関係ない、と言われてしまえばそれまでだ。だが、量子力学をどう解釈するかは、私たちが世界をどうとらえるかに深く結びついている。私たちは、もしかしたら現有の世界観をそっくり取り換えなくてはならないのだ。

で、今週選んだ書物は、電子出版の『NIELS BOHR』(仁科芳雄著、青空文庫〈底本は『岩波講座物理學Ⅰ.B. 學者傳記』、岩波書店、1940年刊〉)。そもそも、量子力学の誕生にどんな動機があったのか、そこのところをしっかり押さえておこうと思ったのである。

この一編は、20世紀前半に日本の物理学界を牽引した著者(1890~1951)が、自身も渡欧時に師事したデンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885~1962)の半生を簡略に綴ったものだ。ボーアの家庭環境や滞英遊学などにも触れているが、当欄は科学史の側面に的を絞る。マックス・プランクの量子仮説(1900年)を原点とする量子論の流れが、1920年代に量子力学として結実するまでのいきさつが見えてくるからである。

本題に入る前に、お許しをいただきたいことがある。この文章は全編、旧字体、旧仮名づかいで書かれている。デンマークを「丁抹」とするなど、旧式の地名表記もある。さらに著者は、ボーアをBohr、ケンブリッジをCambridgeとするなど原語表記も多用している。こうした文章は、昭和戦前の文化遺産として貴重なものだ。当欄はそのことを認めたうえで、本文の引用にあたって文字づかいや表記の仕方を現代風に改めることにする。

ボーアの業績で有名なのは、1913年に提案した原子模型だ。そこには「古典論では律し得ない二つの基礎仮定」があった。一つめは、原子内で電子の運動は「定常状態のみが許される」こと。「中間の状態」はない。二つめは、ある状態から別の状態へ移るとき、エネルギーのやりとりは電磁波の放射吸収によってなされ、その電磁波の振動数(ν)はエネルギーをプランク定数(ℎ)で割った値になること。なぜ、こんな仮定ができるのか?

それは、プランクの量子仮説を踏まえているからだ。この仮説では、エネルギーは塊のように一つ、二つと数えられる。ボーアは、それを原子の内部構造にもち込んだのである。(「本読み by chance」2019年12月6日付「ポアンカレ本で量子論の産声を聴く」)

この英断には前段がある。1910年代初め、ボーアは英国のマンチェスターでアーネスト・ラザフォードに会っている。その直前、ラザフォードは散乱現象の実験で、原子は原子核とその周りの電子からできていることを確かめていた。これによって、J・J・トムソンが主張していたブドウパン型の模型――「陽電気の雲塊の中に電子が浮かんで居るもの」――が否定され、長岡半太郎の土星型模型に近いものが有力な原子像になった。

ただ、この原子像にも難があった。分光学の研究で原子にはスペクトルがあること、すなわち、原子は元素の種類ごとに特定の振動数の電磁波しか放射吸収しないことがわかっていた。ところが、もし電子が古典論の物理に則って隕石の落下のように滑らかに軌道を落としていくのなら、とびとびの振動数をもつ電磁波の放射を説明できない。この矛盾を切り抜ける奇手が、原子が従うべき掟としての「二つの基礎仮定」だった。

ボーアの原子模型は、このように量子論を受け入れているが、一方で古典論にも踏みとどまっている。著者によると、原子の定常状態そのもののエネルギー値は、原子核や電子のような荷電粒子に適用されるクーロンの法則によって古典物理から算出しているというのだ。木に竹を接ぐような話ではある。興味深いのは、この値が今日の量子力学を用いた計算結果にもぴったり合うらしいことだ。著者は、それを「偶然の一致」と言っている。

木に竹を接ぐことになった事情を説明するくだりも、この一編にはある。著者によれば、私たちの「概念」は「巨視的事象」によってかたちづくられているので「描像能力の極限を超えて居る原子、分子等の微視的対象」には当てはめられない。古典論は「描像能力の限界内にある」ので、微視世界までは「定量的」に解き明かせないというのだ。この壁を突破するには、十余年後の「描像を超脱した量子力学」の登場を待たなくてはならない。

ただ、ボーアは二兎を追った。「定量」を可能にするために「二つの基礎仮定」を導入して量子論に一歩踏み込んだが、古典論に片足を残して「描像」も手放さなかった。著者は、その原子模型を「描像を用い得る」「一つの表現法」と位置づけている。

量子論と古典論の折り合いをつけることにも、ボーアは腐心した。これは、そんなに簡単なことではない。片方には、「単一の振動数を有する光量子」ばかりが放出される量子論の現象がある。そこに見られる振動数は不連続で、とびとびだ。もう一方には、「同時に多くの振動数をもった光を出す」ような古典論の現象がある。こちらは、光の振動数が切れ目なく連続している。この二つの物理学を仲良く併存させる道はあるのか。

ボーアは、こう考えた。量子論でも対象が大きくなって巨視の領域に近づけば、とびとびが連続に見えてくる。「極限」に達すれば古典論と「同じことになる」――逆を言えば、古典論は量子論の一部とみなせる。これが「対応原理」と呼ばれるものだ。

この一編を読んで印象深いのは、1910年代、量子力学前夜の量子論――これを前期量子論という――が「描像」にこだわったことだ。物理学の精神としては健全だったと言えるのではないか。今、量子力学の探究は実験技術の進展によって急展開を見せ、巨視と微視の境目が薄れている。もはや量子世界を「描像能力の極限を超えて居る」と突き放せなくなった。わけがわからないならわからないなりに、その世界をイメージしたい。切にそう思う。
〈注〉ℎはプランク定数。それを2πで割った数値がℏで「エイチバー」と読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月28日公開、同日更新、通算576回
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エコと成長は並び立たないのか

今週の書物/
『人新世の「資本論」』
斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊

定常

話題の書『人新世の「資本論」』(斎藤幸平著、集英社新書、2020年刊)を今回も。先週は本書から、現代の資本主義が無限を求めるという習性ゆえに有限な地球を食い尽しつつある現実を切りだした。では今、どうすればよいのか、を今週は考える。

この問題で著者はまず、「気候ケインズ主義」の幻想を打ち砕く。その筋書きでは「再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資」が「安定した高賃金の雇用」を生みだし、需要を呼び起こして景気の好循環につながるだろうと見込むが、そうは問屋が卸さないというのだ。いま世界では経済成長と環境保護の両立をめざすグリーンエコノミーの論調が全盛だが、それに対する異論が全展開される。

ここでもちだされるのが、英国の経済学者ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズが19世紀半ばに見いだした逆説だ。石炭を高効率で使える技術が登場しても、それは期待に反して石炭資源の節約に結びつかない。石炭が安くなって用途が広がり、消費はかえってふえるというのである。「ジェヴォンズのパラドックス」と呼ばれる。著者は、これをグリーン技術と環境負荷の関係に当てはめて、グリーンエコノミーの罠をあぶり出す。

電気自動車が広まった社会を考えてみる。その生産工程で化石燃料を燃やせば、そこで二酸化炭素(CO₂)が出る。充電用の電力を得るときも同様だ。発電に再生可能エネルギーを使うとしても、太陽光パネルや風力発電機をつくる段階でCO₂が吐き出される。著者はここで、電気自動車の台数が2040年までに今より2桁ふえてもCO₂の総排出量はほとんど減らないという国際エネルギー機関(IEA)の試算を突きつけている。

電気自動車については、耳に痛い話がもう一つある。リチウムイオン電池のリチウムは、主要産地が南米チリの山岳部にあり、そこで大量に汲みあげた地下水から採りだしているという。自然環境に影響がないわけがない。「石油の代わりに別の限りある資源が、グローバル・サウスでより一層激しく採掘・収奪されるようになっている」。これも、当欄が前回論じた外部化の例だ。(当欄2021年5月7日付「いまなぜ、資本主義にノーなのか」)

それ以外のグリーン技術も批判の的になる。たとえば、バイオマス。植物由来の有機物を燃料に使えば、その植物が光合成で取り込んだCO₂を再び吐き出すだけで済む。ただ、その植物を栽培するために熱帯雨林が切り払われたらどうか。森林が光合成で吸収するCO₂は莫大だから、排出量抑制の効果は薄れてしまう。さらには、森の生態系が失われることも無視できないだろう。一つの環境負荷を抑えても別の負荷が頭をもたげるのだ。

著者は、IT(情報技術)をグリーンととらえる見方にも異を唱える。現代は「脱物質化した経済システム」が生まれつつあるように見えるが、そうではないと言う。「コンピューターやサーバーの製造や稼働に膨大なエネルギーと資源が消費される」からだ。

これだけ気候ケインズ主義がボコボコにされれば、資本主義を続けながら気候変動に立ち向かうのは難しそうだ、と思えてくる。では、資本主義をやめればそれでよいのかと言えば、そういうわけでもないらしい。著者が問題視するのは、欧米に台頭してきた「左派加速主義」だ。マルクス前期の生産力至上主義にこだわり、「資本主義の技術革新の先にあるコミュニズム」ならば「完全に持続可能な経済成長が可能」とみる立場だという。

この本が左派加速主義の代表例としてとりあげるのは、英国のジャーナリスト、アーロン・バスターニが唱える「完全にオートメーション化された豪奢(ごうしゃ)なコミュニズム」だ。畜産に広大な放牧地が必要なら、人工肉を工場で量産すればよい。人類の敵である病に対しては、遺伝子工学で立ち向かえばよい。リチウムなどレアメタルが文字通りに希少なら、宇宙開発を進めて小惑星で採掘すればよい……そんな具合に技術至上論の趣がある。

左派加速主義に関心が集まる背景には、太陽光など再生可能エネルギーへの期待が高まったこともあるだろう。それは「無償のエネルギー源」なので、コミュニズム向きだ。地表を太陽光パネルで埋め尽すことが地球環境を損なうというなら、宇宙空間で太陽光を集めればよいのかも……こう考えると、旧ソ連とは異なる流儀で経済成長を伴うコミュニズム(共産主義)をめざすことは、時宜に適っているようにも思えてくる。

だが、著者は舌鋒鋭く、左派加速主義を弾劾する。経済の規模が膨らめば「結局は、より多くの資源採掘が必要となる」。エネルギー需要の高まりは再生可能エネルギーをふやしても追いつかず、CO₂濃度の上昇は避けられない。ここにも「ジェヴォンズのパラドックス」がある、と論じている。これについて、私は半信半疑だ。ちゃんとした試算をみてから判定しよう。ただ、生き方論で言えば、左派加速主義に同調する気にはなれない。

これは、私たちの世代の偽らざる実感ではないか。電気冷蔵庫だ、クーラーだ……と家電の登場に喜んでいるうちに電力消費はみるみるふえ、ついには原発が列島に建ち並んだ。その結果、未曽有の大事故である。ITもそうだ。電卓、ワープロ、パソコン、スマホ……つぶやきも動画も瞬時にやりとりできるようになったが、自分がいつも監視されているような気がする。技術は過信できない。技術に浸るのは怖い。そんな思いがある。

では、私たちの世界が気候変動の危機を回避して生き延びる処方箋は何か。「脱成長コミュニズム」だ、と著者は言う。本書によれば、それはマルクスが最後にたどり着いた思想と同じものだ。共同体が「同じような生産を伝統に基づいて繰り返している」とき、そこには「経済成長をしない循環型の定常型経済」(太字は本文では傍点)がある。マルクスは晩年になって、そのことに気づいた。著者は、それを知って現代に生かそうと考える。

文字通り、処方箋のように「脱成長コミュニズムの柱」が箇条書きされたくだりが、この本にはある。筆頭に挙げられているのが「使用価値経済への転換」だ。「使用価値」という言葉がキーワードなので、これを軸に今風のコミュニズムを読み解いていこう。

「使用価値」とは、言葉を換えれば「有用性」だ。この本によれば、それをマルクスは商品の「価値」と切り分けて考えていた。資本主義は商品としての価値を重んじるので、「売れればなんだってかまわない」「一度売れてしまえば、その商品がすぐに捨てられてもいい」と思いがちな側面がある。「使用価値」とは関係のないところで商品の「価値」が高まる例として、「ブランド化」やそれがもたらす「相対的希少性」が挙げられている。

「使用価値」の高いものとしては、コロナ禍で品不足になった物品が例示されている。マスク、消毒液、人工呼吸器だ。「先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作ることができなかった」のはなぜか? それはコスト高となる国内生産を嫌い、海外生産に依存したからだ、と著者はみる。「資本の価値増殖を優先して、『使用価値』を犠牲にした」――これこそは、私たちが1年前に痛い目に遭った現代資本主義の現実である。

脱成長コミュニズムでは「エッセンシャル・ワークの重視」も「柱」の一つだという。「エッセンシャル・ワーク」という用語は、今回のコロナ禍でにわかに知れ渡った。医療、介護、配送、清掃……。巣ごもりが奨励されるときでも働かざるを得ない人々が世の中にいることを思い知らされたのだ。これは、「使用価値」の労働版にほかならない。保健所の激減がコロナ対策を滞らせていることは、この柱が必須であることを物語っている。

このあたりを読むと、当欄がとりあげたスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの論考「監視と処罰ですか?/いいですねー、お願いしまーす!」(松本潤一郎訳、『現代思想』2020年5月号、青土社)を思いだす。そこでジジェクは、コロナ禍では医療資源の配分をめぐって、「適者生存」に対抗する思想として「再発明されたコミュニズム」がありうることを論じていた。(当欄2020年7月10日付「ジジェクの事件!がやって来た

だが、「使用価値」優先にも問題はある、と私は思う。Aの危機ではX、Bの危機ではYというように必要なものは危機によって違う。XもYも……となにもかもは用意できまい。そもそも「脱成長」だって心配だ。高齢化などで高度の社会保障が求められる今、私たちは成長なしでほんとにやっていけるのか? ブランドの幻想にだまされない、シェア経済で無駄な消費をしない、というように工夫はいろいろあろうが、それだけで間に合うのか。

脱成長コミュニズムは未完成のように私には思える。ただ、人類がいつの日かコロナ禍を乗り越え、社会を再設計しようとするとき、この思想にいくつかヒントを見いだせるのは確かだろう。保守派を任ずる人も、コミュニズムと聞いただけで顔をしかめないほうがよい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年5月14日公開、同月17日最終更新、通算574回
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