サルトル的実存の科学観

今週の書物/
『実存主義とは何か――実存主義はヒューマニズムである』
ジャン-ポール・サルトル著、伊吹武彦訳、人文書院「サルトル全集第十三巻」、1955年刊

実存の更新

サルトルにせっかく再会したのだ。どうせなら、もうちょっとつきまとうことにしよう。ということで、先週の書物を今週もう一度(当欄2021年1月29日付「実存の年頃にサルトルを再訪する」)。巻末には講演後の「討論」がある。今回は、そこに的を絞る。

この本では、ただ問答が書きとどめられているだけだ。聴衆がどれほどいて、どんな人物がどんな表情で発言しているのかは想像するしかない。だが、それがどれほど熱を帯びていたかは、ちょっと読んだだけでもわかる。発言者は講演者を無用にもちあげない。「難しいので、もう少しかみ砕いていただいて」というように媒介役を演じているわけでもない。質問をぶつけるというよりも、真正面から論争を挑んでいるふうなのだ。

この空気感は講演当時、すなわち第2次大戦の直後、フランスの論壇でどんな思潮が優勢だったかをものの見事に表している。多くの知識人は左翼思想に傾倒していた。とりわけマルクス主義はロシア革命から30年足らず、まだ弱点を露呈していなかった。だから世論に浸透して、政界をも動かしている。そんなタイミングで、左派とみられる俊才がマルクス主義ではない看板を引っ提げて現れたのだ。素直に受け入れられるわけがない。

たとえば、この「討論」ではカール・マルクスの『共産党宣言』をめぐる興味深いやりとりがある。サルトルは、かつて哲学は哲学者の間で議論されるものだったが、今は「公衆の広場におろされている」と前置きして、『…宣言』はマルクスにとって「思想の通俗化」を意味する、と言う。これに、質問者は黙ってはいない。「通俗化」との表現に噛みついて「あれは闘争の武器だ」と反駁する。マルクス主義者のイデオロギー神聖視が見てとれる。

サルトルは、マルクスを相対化しているのだ。「自分をアンガジェすることが革命をおこすことであった時代には『宣言』を書くべきだった」と、『共産党宣言』を評価はする。だが、現代のように諸党派が百家争鳴の状態にあるときは「様々な革命派に働きかけようとする」ことこそが求められるという。「アンガジェ」(参加する)については前回も当欄で書いた。その選択肢は一つではない、という柔軟な思考がみてとれる。

こうした舌戦に興味は尽きないのだが、今回は、このやりとりに出てくる科学論争に焦点を当てたい。科学観にも、マルクス主義者と実存主義者サルトルの違いが見てとれる。それを科学の同時代史に重ねあわせて吟味すると、また格別の意味を帯びてくる。

マルクス主義者とみられる質問者は「われわれにとっては一つの世界、ただ一つの世界がある」と断言する。単純明快な世界観だ。これに対して、サルトルは「物の世界」は「蓋然の世界」であり、それが「唯一」なら「蓋然性の世界しかなくなってしまう」と反論する。「蓋然性」は「確実性」を土台にしており、その確実さは「主体」に由来するという。前者の立場では「人」も「物」も客観的な存在だが、後者の場合、「人」には主観がある。

すなわち、サルトルは「物を物として捉える」には「主体が必要」として、物理世界に向きあうにもデカルトの命題「われ考う、故にわれあり」に立ち返ろうとする。マルクス主義の理論ですら「主体性の地盤」の上に組み立てられる、とも論ずるのである。

因果律についても見解は対立する。マルクス主義の見方では、人間はこの世界に張りめぐらされた「因果の糸」によって「拘束」されている。ところが、実存主義は個々人の「われ考う」に立脚するので、分断された「非連続的な世界」しか見ないことになる、というのだ。対するサルトルは、マルクス主義が「唯一の全体を研究すること」にこだわり、「その全体のなかに一つの因果律を求めよう」としていることを強く批判する。

議論からは、当時のマルクス主義とサルトル流の実存主義が同時代の自然科学にどこまで追いついていたかが仄見えてくる。前者から感じとれるのは、20世紀半ば、マルクス主義者の多くは――もちろん、その一角を占める自然科学者、とりわけ物理専攻の人々は別だろうが――まだニュートン力学の呪縛に囚われていたらしいということだ。その世界像は絶対空間や絶対時間のなかにあり、あらゆる「物」が決定論に縛られていた。

後者は微妙だ。この討論でサルトルは、科学を「現実的な因果関係を研究するもの」とは見ていない、と表明する。それは「抽象的な諸因子の様々な変化を研究するもの」というのだ。ただ、ニュートン流の素朴な決定論を否定するような文言には出会わない。

この講演があった1945年は、物理学の新しい枠組みとして量子力学が登場して20年が過ぎたころである。この力学では、物理世界をつかさどる波動関数の波が観測の瞬間に収縮して、状態の重ね合わせが消え、一つの事実が選り出されるということが起こる。「抽象的な諸因子」という語句からは、波動関数の波の位相や振幅が連想されなくもない。観測によって事実が定まるという構図も、「主体」に重きを置く思想と相性が良いようにみえる。

ただ、これをもってサルトルが量子力学に通じていたと推察するのは、早とちりであり、買いかぶりでもあるだろう。実際、サルトルは質問者が「統計型式の因果律」という言葉をもちだしたとき、「それは何の意味もない」と一蹴している。量子力学は、教科書風の解釈では確率論の言葉で語られるから、そのことが頭の片隅にあれば「統計型式」をそう簡単には切って捨てられないはずなのである。欧州でも、文理の壁は厚かったのかもしれない。

ここで私は、当欄の前身で1年ほど前に読んだ『新実存主義』(マルクス・ガブリエル、廣瀬覚訳、岩波新書)をもう一度、思い返してみる(「本読み by chance」2020年3月27日付「なぜ今、実存主義アゲインなのか」)。あの本では、科学の話題が臆することなくとりあげられ、心と脳の問題をめぐって脳の神経回路についても語られていた。実存主義と新実存主義の違いは自然科学をどこまで強く意識したかにある――私には、そう思われる。

科学は哲学を更新する。その好例が実存主義の進化のなかにある、とは言えないか。
*引用では、仮名づかいを現代風に改めた。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年2月5日公開、同月19日最終更新、通算560回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

5 Replies to “サルトル的実存の科学観”

  1. 「科学は哲学を更新する。その好例が実存主義の進化のなかにある、とは言えないか(尾関さん)」

    総論賛成、各論反対ですね。
    『新実存主義』は私も読みましたが、あの主張が実存主義の進化形とは思えませんでした。

    ガブリエルは観念論の復権と言いますか、精神の自律性を『唯脳論』に対比して主張していたと思います。その志しは良しという印象で、その主張に説得力が不足している分、かえって精神というものは脳という物質の化学的反応の結果に過ぎないとの主張に軍配を上げたくなる印象でした。つまり、精神というものの根拠である『私』は存在しない。

    一方で、間違いなく科学は哲学に影響を与えてきましたよね。ただ、文系?の人々が科学の発見の意味を十分に理解しないままに自分の主張の根拠付けにしてきたように思います。

    例えば相対論。人間の思想や倫理も相対的で絶対はあり得ないという具合に転用されたりするわけですが、転用の仕組みが分からない。進化論と優生思想との関係、問題は言うまでもありません。

    科学的発見を安易に思想哲学や人間社会のあり方に適用することの危険に注意を喚起し、分かり易く解説し続けることは正に科学ジャーナリスト以外には出来ないことですね。思想や社会を事実に沿って形成する上で、実に重要な役割だと思います。

  2. 虫さん
    なるほど。
    ガブリエルの『新実存主義』は、科学の進化を意識はしたが、それをきちんと取り込んでいない――したがって、実存主義→新実存主義は「進化」とは言い難い、ということでしょうか?
    そうかもしれない。
    もう一度、『新実存主義』を読み返してみることにしましょう。

尾関章 へ返信する コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です