ゴールディングのほら貝は何か

今週の書物/
『蠅の王』
ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化

太平洋

〈火事場の馬鹿力〉という言葉がある。火の手があがったとき、火元近くに住む人が、ふだんなら到底もちあげられない家財道具一式を家から運びだす――そんなイメージか。人間には、火急のときにだけ湧きあがる潜在力があることを言い表している。

だれが、いつごろから言いだしたのか。日本家屋はたいていが木造なので、どの町でも大火が繰り返されてきた。だからたぶん、日本起源なのだろう(確信はないので、間違っていたらご教示を)。ただあるときから、これは外来のことわざであってもおかしくないと思うようになった。30年近く前のことだが、英国で暮らしていたとき、英国人こそ火事場で日本人の幾倍ものパワーを発揮してみせる人たちだ、と実感したのである。

たとえば、こんなことがあった。日本政界の要人が英国にやって来たときの話だ。お忍びの気配があり、訪英の理由がはっきりしない。私がいた新聞社では、駐ロンドンのヨーロッパ総局員が総がかりで要人の動静をうかがうことになった。これには科学記者の私も駆りだされ、終日、ある建物の前に張りついたことを覚えている。このときに〈馬鹿力〉を見せつけたのが、日ごろは私たちの仕事を陰で支えてくれている現地スタッフの青年だった。

英国の名門大学出身で、ジャーナリスト志望。朗らかな性格だが、知識人としての矜持もある。私たちの仕事ぶりを冷静に見つめていて、夕暮れどきのパブ談議などでは辛辣な批評を口にすることもあった。だから、相手が要人とはいえパパラッチまがいの追跡取材には皮肉の一つも言うのではないか、と私は思った。ところが総力戦当日の朝、彼は自前のオートバイにまたがって現れ、終日、ロンドン市街を東へ西へと走り回ったのだ。

英国人は、ここぞというときに頑張る――。最近も私たちは、そのことを目の当たりにした。新型コロナウイルス感染症に対するワクチン開発だ。去年、オックスフォード大学と製薬大手アストラゼネカのグループが秋の実用化をめざしている、という報道が流れたとき、半信半疑の人は多かっただろう。実際、そこまでは速くなかった。とはいえ、今年初めには接種に漕ぎつけたのだ。ここにも〈火事場の馬鹿力〉があったと言ってよい。

で、今週は、そんな英国の精神風土を感じさせてくれる長編小説『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫、1975年文庫化)。著者(1911~1993)は英国の作家。1954年にこの作品で文学界に躍り出て、1983年にはノーベル文学賞を受けている。略歴欄によると、オックスフォード大学を出て演劇の道に入ったが、その後、海軍の軍人となり、ノルマンディー上陸作戦にも加わった。戦後は教師生活も経験したという。

私は、この文豪と奇縁がある。1993年6月、彼がイングランド南西部の自宅で死体となって見つかったというニュースを東京へ送稿しているのだ。この時点で心臓発作が原因らしいとわかっていたから、事件性はなかった。拙稿は死去の第1報を伝える短信だったので、それに東京の文芸記者が注解を添えてくれた。この作品にも言及していて「寓意(ぐうい)性に富む独特の作風で注目を集めた」とある(朝日新聞1993年6月21日朝刊)。

では、『蠅の…』は寓話なのか。これは、即答が難しい。辞書類によれば、寓話ではふつう、動物たちが人間のように振る舞ったり、ものを考えたりする。擬人化の一点で、すでにリアリズムを離脱している。ところが、この小説の主人公は正真正銘の人間だ。筋書きも、ほんとにあった出来事だと言われたら半信半疑になる程度には現実感がある。だが一方で、私たちの世界に対する遠回しの批判、すなわち風刺として読めるのだ。

冒頭の一文はこうだ。「金髪をしたその少年は、身をかがめるようにして、岩壁の一番下の数フィートの所を下りてゆき、それから礁湖の方角へとぼとぼ歩きかけていた」(ルビや注は省く、以下も)。「金髪」なのだから、少年は欧米系なのだろう。「礁湖」とあるから、彼がいるのは珊瑚礁に囲まれた南の島か?――読み進んでいくと、どうやら英国の少年たちが集団で太平洋の無人島に取り残されたのだとわかってくる。

少年たちの会話から、何が起こったかを推察してみよう。「これは島なんだ」「海の中にあるあれ、きっと珊瑚礁だぜ」→どうやら、海から上陸したのではないらしい。「ぼくたちを降下させてから、あの操縦士はどっかへ飛んでいったんだよ」→そうか、空からやってきたのか。「ぼくたちの飛行機が落ちかかったとき」機体の一部から「火が吹いていたよ」→搭乗機が遭難したのは間違いなさそうだ。だが、周りに胴体の残骸はない。

英国の少年が大挙して太平洋の空路を飛ぶ。戦時の避難行動ではあるらしいのだが、詳しい説明はない。しかも、その飛行機は火だるまになり、孤島で搭乗者を脱出させて姿を消す――そんなことが現実にあるだろうか。寓意の匂いは、ここらあたりからも漂う。いや、著者が意図して漂わせたのかもしれない。ありそうにないが、ありえなくもない状況をあえてつくり出して、そこに人間を置いたのだ。それも、自我が露わになりやすい少年たちを。

寓意を成り立たせるためか、この小説は設定が簡素化されている。一つには、生存の最低条件がそろっていることだ。渇きには小川の淡水がある。飢えに対して南国の果実もある。だから、少年たちの間に生きるか死ぬかの生存競争はない。もう一つ、女子が一人もいないことも見落とせない。思春期の前であっても、男女が入り交じれば淡い恋心の一つや二つは芽生えるだろう。だが、そんな話が差し挟まる余地は完全に排除されている。

この作品から私たちが感知できるのは、社会はどのように生まれ、どのように壊れていくのかということだ。少年たちは俗世間に揉まれていないから、白紙の状態から社会を築きはじめる。それは、原始人が群れることに似ている。だが、群れにいざこざはつきものだ。団結は綻び、ときに分裂する。そのありさまが、限界状況に直面する少年たちの姿を通して遠慮会釈なく描かれるのだ。それは、読み手に一つの思考実験を提供してくれる。

小説なので、筋立てに深入りはしない。少年のうち、3人だけを紹介しておこう。主人公はラーフ、12歳。「ボクサーにでもなれそう」な体格だが、顔つきには「ある種の柔和さ」がある。父が海軍軍人ということもあって、泳ぎはうまい。相棒は「ピギー」(豚ちゃん)と呼ばれる聡明な少年。肥満気味で眼鏡をかけていて、喘息の持病がある。敵役はジャック。遭難機に団体で乗っていた少年合唱隊のヘッド・ボーイ(首席隊員)である。

少年たちが初めて集うくだりが印象的だ。ラーフが礁湖の底から巻き貝を拾いあげる。濃いクリーム色に淡い紅色が入り交じった色合い、螺旋のねじれがある。「これを吹いてみんな集めたら?」。ピギーにそそのかされて、ラーフは殻に息を吹き込む。最初はまともな音が出なかったが、やがて「深い、つんざくような響き」が一帯に広がる。その音に誘われて、あちこちから少年たちが集まってくる。こうして「集会」が召集されたのである。

その集会では、ジャックが「どうやったら救助されるか」を話しあおう、と呼びかける。ラーフは、そのまえに指導者となる隊長を決めよう、と提案する。すると、ジャックは合唱隊首席の自分が隊長になる、と名乗り出る。早くも主導権争いの兆候が見てとれる。

隊長は結局、選挙で決めることになる。ジャックは「指導者らしい指導者」になりそうだった。ピギーにも「聡明さ」という強みがあった。だが、「一般の大勢は、漠としてただ隊長を選びたいという希望から、ラーフという特定の個人を拍手喝采とともに選ぼうとする方向へ変っていった」。こうして合唱隊員以外の全員が挙手して、ラーフが選ばれる。群れはカリスマを求めるということだろう。ではなぜ、ラーフがカリスマになりえたのか?

ラーフは、少年たちにとって「ほら貝を吹いた存在」であり、ほら貝を抱えて「みんなのくるのを待っていた存在」だ。そのことで、ほかのだれと比べても「別格」だった。ここで著者は、ほら貝に特別な意味を与えている。ほら貝が暗示するものは、古代ならば祭祀の神器だろう。近代に入ってからは、社会主義などのイデオロギーがその役目を果たしたこともある。今ならば、ネット受けするポピュリスト的な振る舞いかもしれない。

著者がこの物語でほら貝に映し込もうとしたものは、神器ともイデオロギーともポピュリズムとも違うようだ。ラーフは少年たちに対して、集会の議事運営で一つのことを求める。発言権はほら貝をもっている子にある、という決まりだ。「ぼくの次に話をする子に、このほら貝をわたす」「話している間、その子はそれをもってりゃいい」――だれにも意見表明の権利がある。ほら貝は議会制民主主義の象徴であり、ラーフはその体現者なのか。

こうして島では、ほら貝民主主義と呼べる理性的な社会が始まったかに見える。だが、その前途には深淵が口を開けていた。今回は紙幅が尽きたので、次回もう一度、この本を。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年3月26日公開、同月28日最終更新、通算567回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

2 Replies to “ゴールディングのほら貝は何か”

  1. 尾関さん、

    「21世紀的なもの」がなんとなく見えてきたこの時点で「ゴールディングのほら貝」という極めて20世紀的な物語を取り上げるのは、なかなかタイムリーですね。尾関さんの「ほら貝民主主義」という言葉は(この物語を象徴していて;壊れるだろうことが予見されていて)いいですね。

    ほら貝は(文字通りにも象徴的にも)壊れやすく脆弱な物体で、だから、脆弱性を(もっといえば、民主主義の脆弱性を)象徴しているのだろうなどと思うのだけれど、「民主主義は脆弱で、権威主義は強靭」というような(Ralph のやり方は脆弱で、Jack のやり方は強靭だというような)ステレオタイプな理解はしたくなくて、その感じ、わかってもらえるでしょうか?

    ほら貝は民主的な関与を通じて自らを規制する文明社会を象徴しているとか、民主主義を実施することの限界と民主主義が表す可能性を表しているだとか、言論の自由と民事訴訟の象徴だとか(そんなわけないですよね)、シンボル自体の力と脆弱性のシンボルとしても機能する(少年たち全員がその力とそれが象徴するアイデアの必要性を信じている場合にのみ機能する)とか、いろいろなことが言う人がいますが、読む人によって違うというのは、これが優れた物語だということなのでしょう。

    日本にいて日本のメディアにばかり接していれば、「Ralph が体現する文明的な本能」=「日本や欧米」で、「Jack が体現する野蛮な本能」=「中国・ロシア・中東・アフリカ・アジア・中南米・東欧」ということになるのでしょうが、違うところで違うメディアに接していてこの小説を読むと、Jack こそが欧米や日本に思えてくるから不思議です。

    日本では「民主主義が危機に瀕している」とか「民主主義に懐疑的な見方が増えている」などと言う人がいますが、果たして日本の戦後民主主義が民主主義なのかと、ウィリアム・ゴールディングにたずねてみたくもなります。日本は(戦前も戦後も)全体主義なのではないか。そういう感じが拭えません。

    それにしても、島のなかでの子どもたちのこととは思えない不思議な物語ですね。この物語をもとに作られた映画では、設定が大きく変えられたとか。。。映画を観てみたい気がします。

    眠いなか書いていたら、変なコメントになりました。(せっかく書いたので投稿しますが。。。)すみません。

  2. 38さん
    《日本にいて日本のメディアにばかり接していれば、「Ralph が体現する文明的な本能」=「日本や欧米」で、「Jack が体現する野蛮な本能」=「中国・ロシア・中東・アフリカ・アジア・中南米・東欧」ということになるのでしょうが、違うところで違うメディアに接していてこの小説を読むと、Jack こそが欧米や日本に思えてくるから不思議です》
    次回公開予定の拙稿を鋭い勘で先取りして、痛いところを突いてこられた感じです。
    国・地域による色分けはあまり考えていませんが、図式的な発想にはどうしても囚われてしまいますね。
    この作品で私が思い浮かべる図式は、やはりステレオタイプ感が拭えない。
    おっしゃる通り、「極めて20世紀的な物語」なのかもしれませんね。

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