今週の書物/
『赤死病』
ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳、白水uブックス、2020年刊
アフターコロナという言葉をよく耳にする。だが、ワクチンが登場すればウイルスも変異する、というイタチごっこを見ていると、人と人とが距離を置くこと以外に鉄壁の感染予防策が見当たらない病に本当のアフターはあるのだろうか、と思ってしまう。
とはいえ、コロナ禍もいつかは収束するだろう。収まり方には、いくつかのパターンが考えられる。一つは、ウイルスの主流が人間の生命を脅かさない平和共存型に変わっていくという筋書きだ。ウイルスは感染先の生体のしくみを借用して増殖するので、その生体が安泰であるほうが都合よい。だから、この筋書きは十分にありうると思うが、それには進化論的な時間がかかる。ウイルスの世界では進化の所要時間が短いことを願うばかりだ。
もう一つ、治療用の特効薬が現れて、この感染症がふつうの病気になるという道筋もある。人類は20世紀後半、生命の遺伝情報をDNA(デオキシリボ核酸)やRNA(リボ核酸)の塩基配列として読み取ることを覚えた。今の科学者は、新型コロナウイルスの塩基配列を見極めている。病原体の正体を見抜いているということだ。だから、特効薬の開発は大いに期待できるが、それにどのくらいの歳月がかかるかはわからない。
最悪のシナリオもある。ウイルスが邪悪なものへ変異することだ。さきほど、ウイルスの主流が平和共存型になる可能性があると言ったのは、あくまで長い目で見たときのことだ。遺伝子の変異は偶然に左右されるから、短期的には悪い方向に向かうこともある――。
で、今週は『赤死病』(ジャック・ロンドン著、辻井栄滋訳、白水uブックス、2020年刊)から、表題作の中編小説を読む。著者(1876~1916)は米国サンフランシスコ生まれの作家。『野性の呼び声』(『荒野の呼び声』の邦題も)など、大自然を舞台とする作品が有名だが、社会派でもある。自身も缶詰工場で働き、漁船に乗り組み、新聞の特派員になるなど多彩な職種を経験した。日露戦争のころ、日本にも取材で訪れている。
この本は、その社会派としての一面が感じられる作品を収めている。人類の行方に思いをめぐらせたSF風小説2編とエッセイ1編。表題作は2010年に単行本(新樹社刊)として邦訳されたものが底本だが、原著は1910年に発表されている。だが、小説の時代設定は2073年。一人の老いた男が孫たちに60年前、2013年に勃発した疫病禍について語るという仕掛けだ。コロナ禍の到来を100年前から見抜いていたようにも思えるではないか。
その疫病が、赤死病(scarlet plague)である。2013年夏、ニューヨークに「わけのわからない病気」が出現する。その病態を老人の話をもとに描けば、こうなる。患者は、鼓動が速まり発熱、顔面や体表に「まっ赤な発疹が」「野火のように広がる」。痙攣が起こり、それが収まったかと思うと、しびれが下半身から上半身に昇ってきて「心臓の高さにまで達したとき、そいつは死んでしまう」。この間、わずか15分ほど、という速さだ。
同じように文学作品が想定した架空の病として、すぐに思い浮かぶのは「チェン氏病」だ。カレル・チャペックの戯曲『白い病』(阿部賢一訳、岩波文庫)に出てくる。皮膚に「大理石のような白斑」が現れ、死に至ることが多いという疫病だった(当欄2021年7月9日付「チャペックの疫病禍を冷静に読む」)。ただ、その「白い病」発表は1937年。1918~19年のスペイン風邪大流行よりも後だ。「赤死病」の着想は、それよりも早い。
書きだしの一文に「道は、その昔盛り土をして鉄道線路が走っていたところに続いていた」とある。一瞬、赤字ローカル線の廃線敷が見えてきたのかな、とも思う。だが、登場人物のいでたちを知って、ローカルな問題ではないとわかる。体を覆っている「衣服」が、老人は「やぎの皮」、少年は「熊の皮」。まるで原始人ではないか。少年は眼光鋭く、嗅覚も聴覚も敏感のようだ。実際、弓矢を手にしていて狩猟生活を送っているのである。
これだけの話でも読みとれるのは、この作品では、2013年の赤死病禍によって世界の風景が一変したということだ。ビフォーには工業化社会があった。ところが、赤死病禍をくぐり抜けると人類史は初期化され、アフターでは原始生活に戻ってしまう――。
冒頭に廃線敷を振ったのは、作品が構想されたのが20世紀初めだったからだろう。著者が100年先を見通して2013年の文明を代表するものとして思い描けたのは、鉄道くらいだったということだ。ただ、現実に2013年を通過した私たちにとって鉄道は古すぎる。
私たちが今、2013年を象徴するものは何だったかと訊かれれば、まちがいなくスマートフォンと答えるだろう。悪趣味になるが、作品冒頭の文をそっくり書き換えればこうなる。「道端のあちこちに横たわる白骨死体の手には、なぜか決まって板切れのような物体が握られていた」――。この100年余の文明の飛躍は大きい。100年前にはIT(情報技術)やAI(人工知能)に支えられた社会など、想像すらできなかっただろう。
ただ、著者も現代技術の一端を先取りしている。老人は2013年の世情を語るなかで「空には飛行船があった――気球や航空機が」と言っている。ライト兄弟の初飛行が1903年だから、飛行機は執筆時にもあったが、それが空を賑わすことまで予想していたのである。
ITへの流れも予感していたように見える。老人によれば、赤死病禍がニューヨークで勃発したというニュースは「無線電報」で広まった。これは、新聞の電信記事を指しているのだろう。「その頃、わしらは空中を通じて話をしておった。何千マイルも離れてな」
著者は、現実の2010年代の様相をある程度取り込んでいたとみるべきだろう。この作品では、凶悪な疫病禍が人類を初期化したわけだが、同じ構図が現実の21世紀社会で成り立たないとはいえないのだ。人類は原始時代に引き戻されるかもしれない。そんな暗い未来図――ディストピア――にも思いをめぐらすことが、この作品の読み方の一つだ。ではまず、赤死病がなぜ、人類の初期化を起こしてしまったのかを考えてみよう。
最大の要因は、感染拡大のすさまじさにあるのだろう。この作品では、赤死病患者は死に至ると同時に死体が「見るみるうちに粉みじん」となり、飛散する。その結果、「病原菌のすべてが、たちどころに自由にされてしまう」。菌がまき散らされた後の感染経路までは説明されていないが、おそらく空気感染などで広がるのだろう。今どきの用語で言えば、実効再生産数は1を超えて途方もなく大きくなっていたに違いない。
こうして、人類は絶滅寸前となる。老人は「わしの見当では、現在の世界の人口は三百五十から四百人」と言う。米西海岸に散在する部族の規模から推し量った人数だ。米東部からは「何の消息や気配も届いていない」。老人にとって「少年時代や青年の頃に知っておった世界は、もうなくなってしまった」のである。現代人らしい現代人は、技術文明がぷっつり途絶えるとともに姿を消した。いわば、人類がそっくり入れかわったと言ってもよい。
人類が初期化されると、技術文明を失うだけではない。老人が、自分は2013年当時カリフォルニア大学バークリー校の教授で、英文学の講義をしていたという話をすると、孫の一人が「ただ喋って、喋って、喋るばっかりだったのか?」と訊いてくる。愕然とするのは、次のひとことだ。「誰がじいさんのために肉を狩りに行ったんだ?」――人類が歴史を刻むたびに強めてきた分業体制の概念が、ここではまったく通用しなくなっている。
老人は分業社会を批判的に説明する。「わしら支配階級の者が、すべての土地、すべての機械、何もかもことごとく所有しておった」「食べ物を手に入れる者たちは、わしらの奴隷だった」。著者は社会主義を支持していたから、原始共産制への共感がこう言わせたのか。
人類の初期化では、人間の世界観もやせ細ってしまう。そのことを痛感する場面もある。老人が赤死病について縷々語っていると、孫の一人が「その病原菌ってやつを見れやしないんだろ、じいさん」とツッコミを入れ、「見れないものなど、ありゃあしねえ」と畳みかけてくる。原始の世界観では、見えるもの、聞こえるもの、におうもの、触れるもの、味がするものだけが頼りだ。知的作業で世界を押しひろげることができない。
本稿のまくらにも書いたように、私たちは今、コロナ禍の病原体を突きとめている。それは、細菌よりもずっと小さなウイルスだ。当然、肉眼では「見れない」(ら抜きを改めれば「見られない」)が、電子顕微鏡で可視化できる。それだけでなく、その遺伝情報まで解読できるようになった。これは、人類が蓄積してきた知の成果といえる。ただ、もしも絶滅寸前にまで追い込まれれば、同じ知をもう一度、最初から積みあげなくてはならない。
新型コロナウイルスがさらに邪悪な方向へ変異して、万一、感染の拡大速度や致死率が赤死病並みになれば、そんな最悪の事態すら想定しなくてはならなくなる。私たちの行く手に人類史的な難所が待ち受けていないとも限らないのだ。そのことは心にとめておきたい。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年9月24日公開、通算593回
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尾関さん
人類が初期化されるという設定は、並外れて邪悪な伝染病パンデミックの恐ろしさを語るにふさわしい着想ですね。
ただ、実際にはありえないでしょうし、疫病で飛行機などまで粉微塵になるんですかといったツッコミは入れずにおきます。
さて、伝染病から話がそれて恐縮ですが、私が興味を持ったのは、老人が口承で初期化された人類に昔の世界を語っていることです。記録媒体は老人の記憶、あるいは脳なわけです。
私達は過去をどのようにして知るのでしょう?例えば律令制の時代。大宝律令そのものの原文はなくとも、その後の復元の努力や記録などからその内容を知ることができます。
しかし、地方から中央への一枚の木簡が見つかると、律令制で実際に中央集権化が実現した社会の生活が活きいきとして思い浮かびます。
あるいは厠跡の調査で当時の食生活などが明らかにされると、これまたリアルに当時の生活が目に浮かびます。
西暦3,000年にはどんな記録媒体があるのか想像もできません。もしかすると記録媒体という概念もなくなっているかもしれない。
そんな未来の人々は現在の世界や私達の生活をどうやって知ることになるのでしょう?それも、リアリティを持って。
虫さん
《そんな未来の人々は現在の世界や私達の生活をどうやって知ることになるのでしょう?》
SDカードはどうなっているのだろう?
USBメモリーは?
そう思うと、はなはだ心もとないですね。
一方で、人類が入れかわってもそんなことは知らないね、「私」にとってはこの人類以外の人類はありえない、という考え方もある。
人類Aと人類Bが入れかわるとき、AとBは本来、没交渉なのでしょう――ちょうど、並行世界のように。
この作品は人類Aと人類Bをムリクリ引きあわせた小説。
その媒介役が年寄りだった。
「年寄りの役割」発見小説でもあるわけですね。