優生学の優しい罠

今週の書物/
『「現代優生学」の脅威』
池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021

DNAの二重らせん

コロナ禍のニュースを聞いていて、ギクッとする瞬間があった。「命の選択」という言葉を耳にしたときだ。病床が足らず、入院させる人、治療する人を選ばなくてはならない――そんな状況が国内でも現出した。その結果、「自宅療養」を強いられた人が在宅で落命する悲劇も相次いだ。医療資源が限られているという現実があらわになり、この人には薬を提供するが、あの人には我慢してもらう、という選別がなされたのである。

「命の選択」という言葉は、科学記者にとって耳慣れないものではない。科学報道の一領域に生命倫理があり、案件の一つに出生前診断があった。30年ほど前には、受精卵にさかのぼって遺伝子のDNAや染色体を調べ、遺伝病の有無などを突きとめる着床前診断も登場した。これらは、現実には赤ちゃんを産むかどうかという問題につながってくる。そこで記者たちは、この診断技術をとりあげるとき、「命の選択」という表現を用いたのである。

実は、その着床前診断をめぐって今夏、見落とせないニュースがあった。日本産科婦人科学会が、診断対象となる遺伝性の病気の範囲を広げる方針を決めたというのだ。これまでは「成人に達する以前に」生き続けられないおそれがある重い遺伝病などに限っていた。だが、今後は「原則、成人に達する以前に」という文言に改め、大人になってから発症するものも条件付きで認めようというのだ(朝日新聞2021年6月27日朝刊)。

新たに加わる診断対象としては、現時点で有効な治療法が望めない病気などを挙げている。不気味なのは、範囲がどこまで広がるかわからないことだ。最近では多くの病気に遺伝要因が見つかり、遺伝性とされる病気が旧来の遺伝病の枠に収まらないからである。

これは、生命倫理の大事件と言ってよい。ところが世間では、それほど騒ぎにならなかった。考えてみれば、私たちは今、自分がコロナ禍で「選択」の対象になりかねない状況にある。自身の危機感が先に立って、人類の倫理を考える余裕がなくなっているのか。

で、今週は、こうした生命倫理の問題に今日的な角度から迫ってみる。手にとったのは『「現代優生学」の脅威』(池田清彦著、インターナショナル新書、集英社インターナショナル、2021年刊)。集英社の『kotoba』誌に2020年に連載された論考をもとにしている。著者は1947年生まれの生物学者、評論家。生物学を構造主義の視点から論じ、進化論など生物学のテーマに限らず、科学論や社会問題など幅広い分野で著作がある。

本書「まえがき」によれば、「優生学」とは「優れた者たちによる高度な社会」を目標とする研究をいう。そのためには「優れた者たち」の血筋だけを後続世代に残し、「劣った者たち」のそれは絶やすか、あるいは「改良」すればよい、という発想をする。

この発想を現実社会で具現化したのが、ナチス・ドイツによる「優生政策」だ。それは、「障害者の『断種』とユダヤ人の大量殺戮という人類史上最悪の災厄」を引き起こしてしまった。この経緯もあって、優生学の主張は第2次世界大戦後の先進諸国で「タブー」となった。だが、著者が「その後も国家施策などに小さくない影響を与えました」と指摘している通り、「いわゆる優生思想」はさまざまなかたちで生き延びてきたのである。

日本の国家施策はどうか。第四章「日本人と優生学」を見てみよう。1948年、戦時中の「国民優生法」を受け継いで「優生保護法」が定められ、第一条で「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」とうたわれた。今からみれば不適切極まりない表現だ。これによって、ハンセン病患者の断種手術も正当化された。この法律が、こうした優生学的な条項を除いて「母体保護法」に代わったのは1996年。「優生」は戦後半世紀も生き延びていた。

では、国内の優生思想は1996年で息絶えたのか。いやいや、それはしぶとく生きている、と見抜いたのが本書だ。書名に「現代優生学」とあるのは、この理由からだろう。ここで「現代」とは、21世紀の今を指している。著者は「まえがき」で、出生前診断による妊娠中絶や、知的障害者施設を標的にした多人数殺傷事件などを例に挙げ、「戦後、一度は封印されたはずの優生学が、奇妙な新しさをまとって再浮上している」と書いている。

出生前診断について言えば、診断結果を受けて中絶するかどうかを決断するのは胎児や受精卵の親御さんだ。この立場に身を置いて考えれば、迷いがいかほどのものかが想像できる。片方には、わが子に苦難を背負うことなく育ってほしいという願望がある。他方には、授かった生命に対する敬意と愛情がある。そこに覆いかぶさってくるのが、今風の自己決定権尊重だ。お決めになるのは、あなたご自身です、というわけだ。

一方、前述の多人数殺傷事件は、重度障害者の生を社会が支えることに異を唱える一青年の手で引き起こされた。それ自体は凶悪犯罪であり、刑事裁判で裁くよりほかない。ただ、そんな主張を正論であるかのように公言する人間が現れた背景は座視できないだろう。そこに見え隠れするのは、生産性を高めることばかりに熱心な世間の風潮だ。なにごとも効率本位で考えようとする新自由主義の価値観も影響しているように思える。

こうしてみると、著者が言う通り、「現代優生学」は確かに「奇妙な新しさをまとって」いる。その「新しさ」を醸しだすキーワードが自己決定権や新自由主義ではないか、と私は思う。自己決定権は、今や〈保守派〉の対義語となった〈リベラル派〉も尊重している(*)。新自由主義は、〈リベラル派〉の経済政策と対立するが、ナチズムのように全否定はされない。このようにして優生思想は私たちの時代に優しげな罠を仕掛けるのだ。

私が本書で衝撃を受けたのは、優しげな罠は実は優生思想の源流にも見てとれることだ。著者は、19世紀末のドイツで優生学を切りひらいた先人に光を当てている。一人は医師でもあったヴィルヘルム・シャルマイヤー、もう一人はアルフレート・プレッツだ。

まずは、シャルマイヤーから。本書によると、その主張はダーウィン進化論に強く影響されている。「文明や文化が発展するほど、自然淘汰が阻害され、人間の変質(退化)が進む」と考えたのだ。「変質(退化)」を促すものとして「医学・公衆衛生の発達」を挙げる。「虚弱な個体が生き延びて、子を産み続けること」が淘汰の妨げとなり、退化をもたらすというのが、その論理だった。医師が医学の意義を懐疑するという不思議な構図がある。

驚くのは、彼がこの考え方を意外な方向に押し広げることだ。「退化」の要因として「戦争による兵役」や「私有財産制」(「資本制」)も問題視する。前者は「強健者や壮健な人間を選択的に早逝させる」、後者は「資本家は虚弱でも生存できる」という状況をつくりだす――そう考えて、反戦と社会主義の立場をとったという。ここからは、経済的な弱者は支援するが生物学的な弱者は切り捨てる、という歪んだ弱者擁護の思考回路が見てとれる。

彼の発想でもう一つ見過ごせないのは、すべての国民の「病歴記録証」をつくり、それを当局が保管するという施策だ。病気の遺伝要因を次世代に受け渡さないように、婚姻届を出すときに「記録証の提示」を求める。これは、今ならばDNA情報の管理というかたちをとるだろう。プライバシー保護の観点から反対意見が殺到するのは必至だが、技術的にはすぐにも実現できることだ。私たちは優生学の誘惑にきわめて近いところにいる。

もう一人、プレッツは「人種衛生学」の提唱者。人間の集合には、相互扶助の原理で動く側面(「社会」)と、闘争や淘汰が避けられない側面(「種」)があるとみた。懸念したのは、種が「淘汰の低減」に直面すると「社会」の発展が鈍ることだ。「相互扶助と淘汰の両立」を目標に考えを練り、思い至ったのが「淘汰を出生前に移行させる」ことだった。遺伝性の病気を抱える人々の生殖を規制しようという発想は、ここから出てきたという。

優生学は、昔はあからさまに、人類の存続や社会の発展がときに個人の権利より優先されるという立場から主張された。今は個人の権利が第一とささやきながら、個人の次元で辛い選択を迫る局面が出てきたように見える。だから昔より、細心の注意が欠かせない。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年11月26日公開、通算602回
*本読み by chance「朝日を嫌うリベラル新潮流」(2018年11月23日付)参照
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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6 Replies to “優生学の優しい罠”

  1. 尾関さん、

    尾関さんが面倒くさいトピックを取り上げたので、私も面倒くさいコメントを書きます。以下、読み流してください。

    優生学が間違っているというのは当然のことと思われがちですが、それがなぜ間違っているのかは明らかではありません。倫理的には確かに間違っているかもしれない。でも科学的にそれがなぜ間違いなのかは、あまり明確でない。著者の池田清彦が生物学者だというなら、優生学の科学的な誤りを明確に説明すべきなのではないか。そう思ってしまいます。

    優生学はイギリスで生まれ、アメリカを巻き込んで発達してきました。フランシス・ゴルトン(Francis Galton)抜きで優生学を語ることはできないし、チャールズ・ダベンポート(Charles Davenport)が書いたことを読まずに優生学は語れないでしょう。それなのに、第二次世界大戦後のアメリカ議会のユダヤロビーのせいで、優生学をナチスの優生政策に集約させてしまう図式が出てきたのを、そのまま紹介するなんて、あんまりだと思います。ヴィルヘルム・シャルマイヤー(Wilhelm Schallmayer)やアルフレート・プレッツ(Alfred Ploetz)といった人種衛生学者たちが推し進めた人種衛生学・優生学は、優生学の歴史の流れのなかでは決して主流ではなかったことは、はっきりとさせなければなりません。なにが言いたいかというと、優生政策が(その時々で)合理的な近代化政策だったということ。そのことは、誰にも否定できないのではないかということです。

    悪いことはなんでもナチスのせいにするのはやめて、いま私たちが本当に考えなければならないのは、優生学の歴史(たったひとつの歴史)から、どのようにして異なる(時に正反対の)倫理・道徳が導き出されてきたかということではないか。違いますかね?

    イギリスもアメリカも、そしてドイツもフランスも、優生学について(そして優生政策について)何が問題だったのかを明らかにし、そのひとつひとつを清算してきました。それなのに日本では(強制的不妊手術などの)人権侵害や、(優生条項を放置してきた)国の責任が、あいまいになってしまった。そのせいかどうか、日本人ひとりひとりのなかに内なる優生思想が(程度の差こそあれ)根深く巣食っていて、無意識に排除の原理が言葉のなかに顔を出してしまっているような気がします。

    選択的妊娠中絶を経験している人が周りにたくさんいて、水子供養などというものが多くの寺の財源になっているという、そんな状況のなかで、歴史や責任をあいまいにすれば、どうなるか。迷惑をかけたくないから排除するという発想が出てくるのを見ると、日本人が無意識に持ってしまった倫理・道徳の残念さが浮かび上がってきます。

    優生学の誤りのもとになる科学的・根本的な概念をはっきりと提示し、微妙であいまいな優生学を持った社会から、科学的ではっきりとした優生学を持った社会に脱皮し、倫理的にも整理のついた社会になればと、そう思うのですが、どうでしょうか。

    「機械が人間の労働を代替しつつあるなかで、失業者や単純労働者への風当たりがますます強くなっている」というのは確かですし、「生産性のない人間を直接淘汰する」のも今起きていることです。でもそれを「優生学」と結びつけるのは、なんだか無謀な気がします。

    いま起きているディジタルトランスフォーメーション(DX; AI・ブロックチェーン・ビッグデータによる変化)の社会への影響まで、優生学で説明してしまうのはどうかと思うのですが。僕の友だちのデモグラファー(人口統計学者)は、DXの社会への影響を、デモグラフィー(人口統計学)で見事に説明してしまいましたが。。。

    (身も蓋もありませんが)私の興味を書いてしまえば、あらゆる場面で「科学・技術」が「倫理・道徳」を凌いでいる今、なぜ優生学だけが「倫理・道徳」が「科学・技術」を凌いでいるのかということです。そして、遺伝子操作が「倫理・道徳」を超えていくか。とても興味深いです。

    尾関さんのような立場の人が、新しく生まれてくる「科学・技術」についての「倫理・道徳」を提示することが、この社会にとってとても大事だと思いますが、どう思いますか?

    1. 38さん
      《(身も蓋もありませんが)私の興味を書いてしまえば、あらゆる場面で「科学・技術」が「倫理・道徳」を凌いでいる今、なぜ優生学だけが「倫理・道徳」が「科学・技術」を凌いでいるのかということです》
      このご見解にひとこと。
      不幸なことに、「政治」が過剰に入り込んでしまっているのが優生思想/反優生思想の問題かな、という気はします。
      ここはひとまず、国家の優生政策に対する議論を外して、個人の立場で「選択」の問題を考えたい。
      私たちは今や、自身や自身のパートナーのDNA情報が――ということは、潜在的子孫の潜在的DNA情報も――入手可能になっていて当惑するばかり。
      そこにどのようにして「人権」という価値観を組み込むか――考えるべき点はそんなところにあるように思います。

  2. 尾関さん、
    まったく同感です。遺伝子治療とか、再生医療とか、どんどん進歩するのはいいのだけれど、倫理はどうなっているのか。とても気になります。
    自分の whole genome sequencing と bioinformatics analysis を持っている人だけが個別化医療(personalized medicine)を受けることができ、そうでない人は標準医療を受ける。そんな現実に当惑するばかりです。個別化医療のなかに遺伝子をさわることが含まれても、問題にならないし、なんの議論も行われない。倫理の空白地帯が広がっているように思えます。そんななかで、遺伝子治療がとんでもない速さで進歩している。
    再生医療も同じです。再生医療の急速な進歩によって、人々の人体に対する見方が大きく変わり、倫理も現実も(気付かぬうちに)あっという間に変わってしまっているように思えます。
    人体はもはや「心と体」の「体」ではなく、物質であり、人体の部分であり、資源であり、パーツであり、商品なのです。
    治療とか移植とかいって、人体のパーツが身体に組み込まれてしまう。脳の一部分までもが、いとも簡単に取り換えられてしまう。そんなことが許されていいのだろうかという人もいない。
    移植医療や人工臓器の開発により、臓器や組織といったパーツの商品化が可能になってきて、それをビジネスチャンスと捉える人がたくさんいます。
    人体をパーツの集合体と考えていいのかどうか? 人体のパーツを使い捨てカメラとか注射器とかコンタクトレンズなどの使い捨てツールのように扱っていいものなのか? 疑問はつきません。
    人間の尊厳はどこにいってしまったのか? 優生学で起きたことと同じようなことが、遺伝子治療や再生医療で起きないとは限りません。

    1. 38さん
      《倫理の空白地帯が広がっているように思えます》
      同感です。
      私の世代の科学記者は1980年代、生命倫理の問題に初めて触れました。
      当時の大テーマとしては、脳死/臓器移植問題があった。
      これは実は日本ローカルの問題で、全人類的にみればDNA/遺伝子の技術が急展開していて、そのことにもっと目を向けるべきでした。
      残念なのは、現在でも国内メディアの生命倫理報道が、あのころの局面から動いていないように見えることですね。
      いやむしろ、脳死/臓器移植問題ですら風化してしまっている。
      そして悲しいことに、生命倫理の難題が出てくると、決まって「国」がガイドラインを設けるよう求める声が出てくる。
      「国」よりも前に私たちが、患者・家族や医師や研究者たちが自分で考えなくてはいけないはずなのに……。

  3. 尾関さん

    周回遅れならぬ1週遅れのコメントです。

    日本には「社会」という言葉に二重性があり、そこに問題がある、と私は時に熱っぽく語るのですが、期待した反応はほとんど帰ってきませんね、笑。

    社会とは本来、赤ちゃんから老人まで、男も女も、そして健常者も障害者も包含した「全体」を意味するはずですが、一方で「社会に出る」あるいは「社会人になる」という狭義の「社会」があるようです。

    後者の「社会に出る」は明らかに「経済的生産性を有する環境」に身を置くことであり、「一人前になる」という表現でも語られます。つまり、社会の中に社会があり、後者から外れた人々は「半人前」というわけです。

    あの多人数殺傷事件は「新しさをまとった現代優生思想」の現れというよりも、優生保護法の核をなす思想がとうとうあからさまに、生きた人間を相手に具体的に表現された事件だと思います。

    確かにその背後に経済的生産性を重んじる「新自由主義」の影響があるかもしれませんが、それ以前に、経済的生産性に関与することが「一人前」であるとする「社会」という言葉の二重性に疑問を持たない私達の精神が大きな力として働いているように思えます。

    人口減少を逆手に取って総合的な豊かさを持った社会への転換を図ることなく、旧態然とした経済成長の白昼夢を今なお追っている現在、上位に置かれてきた狭義の「社会」は国際的に凋落してきています。
    その焦りや怒りが、狭義の「社会」から外れたところにいる人々に向けられ、さらなる事件が引き起こされぬことを願うばかりです。

    1. 虫さん
      《日本には「社会」という言葉に二重性があり、そこに問題がある、と私は時に熱っぽく語る》
      わかります。
      「社会人」という言葉が「稼ぎのある人」の意で使われるのはおかしい、人間はすべて社会の一員である――私の友人にも、そう主張する人がいます。
      その指摘を聞いて以来、「社会人」を安易に使わないよう心がけています。

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