今週の書物/
『現代ウクライナ短編集』
藤井悦子 オリガ・ホメンコ編訳、群像社ライブラリー、2005年刊
このところ、ニュースはウクライナ一色だ。大義が見えないロシアの侵攻を目の当たりにして、世界の大勢がウクライナの味方になっている。当然だろう。きのうと同じきょう、きょうと同じあした……そんな日々を過ごしていた人々の眼前に突然、戦車が現れたのだ。砲弾が飛んできて、アパートにぽっかり穴を開けてしまったのだ。おびただしい数の生命が奪われた。数えきれないほどの家族が離ればなれになっている――。
そのウクライナを、私は一度だけ訪れたことがある。チェルノブイリ原発事故から5年後の1991年冬、旧ソ連のウクライナ、ベラルーシ、ロシアにまたがる被災地を駆け足で回った。勤め先の新聞社が、被曝による晩発障害のリスクがある子どもたちの医療支援を手がけようとしていたときで、その調査団に同行したのだ。主な訪問先は病院だった。日程がパック旅行のように組まれていたので、あの国の風土に浸ったとは言い難い。
ただ、首都キエフの空気感は忘れられない。ドニエプル川には氷が張っていたと思うが、モスクワ経由でやって来た身には心もち温かく感じられた。日差しが明るい。街の風景にも中世キエフ公国の名残らしきものがあちこちにあって、どことなく華やいでいた。
あのころ、私たちは記事を書くとき「ソ連チェルノブイリ原発」のように表記して、それが「ウクライナ」にあることは気にかけなかった。だが、当時のソ連ゴルバチョフ政権はペレストロイカやグラスノスチを合言葉に民主化を進めていて、連邦解体に向かう流れが強まっていた。キエフの街でも、独立運動を象徴する黄と青の旗(現・ウクライナ国旗)をよく見かけた。実際、その年の夏、ウクライナは独立を宣言したのだ。
ウクライナとロシアの間には深い溝がある。たとえば、ウクライナで1932~1933年にあった「大飢饉」(「ホロドモール」と呼ばれる)。ウクライナ政府は2000年代、これは旧ソ連スターリン政権の「強制的な農業集団化」と「過酷な穀物徴発」がもたらした人為的な飢餓状態であり、「集団殺害(ジェノサイド)」だった、と国際社会に向けて主張した。検証は必要だが、旧ソ連時代に語られなかった過去が表に出てきたとは言えるだろう。
ウクライナは肥沃な土壌に恵まれ、世界の穀倉地帯といわれる。その豊かさが統治者に目をつけられた。その結果、不作はただの不作に終わらず、穀物取り立てとの二重苦をもたらす――そんな逆説があったというのだ。人々が独立を求める気持ちもよくわかる。
で、今週は『現代ウクライナ短編集』(藤井悦子 オリガ・ホメンコ編訳、群像社ライブラリー、2005年刊)。ウクライナの現代小説16編を収めている。うち1編を除く15編は、ウクライナで1997年に編まれた短編小説集『暗い部屋の花たち』(全46編)の所収作品だ。この46編は1980年代初めから1990年代半ばまでに執筆されたもの。ウクライナ独立の1991年を挟む期間だ。ちょうど、私がキエフの空気を吸ったころと重なる。
当欄で最初に紹介しようと思うのは、「天空の神秘の彼方に」(カテリーナ・モートリチ)。この作品は、1930年代の大飢饉に見舞われた農村の様子を描いている。作中には「農業集団化」という用語や「スターリン」という人名が出てくる。公然と物語を歴史に結びつけているのだ。ウクライナの人々は旧ソ連時代も大飢饉の実相を脈々と語り継いできた――この作品の存在そのものが、そのことを実証しているのだともいえよう。
作品の書きだしは牧歌的な農村風景だ。「村中に霞がかかって、まだ穂の青い麦の上を覆っていた。その光景は川底に寝そべるなまずのようだった」。キジバトがいる。小夜鳴き鳥(ナイチンゲール)がいる。カッコウもいる。ただ、いつもの春とどこか違う。「井戸のはねつるべの音」も「どうどうと雄牛を駆り立てる声」もしない。馬が巻き上げる土埃も、牛たちが発する鳴き声もない。村にあるはずの「生命の息吹」がないのだ。
主人公はソロミーヤ。前日に出産したが、子は死んでいた。ベッドに横たわっていると「冬から春にかけて死んでしまった者たちすべての姿」が脳裏に現れる。祖父母、父母、そして二人の子。生きている家族は夫アンドリイだけ。自分の命も風前の灯火だ。
この物語で、ソロミーヤの「魂」は肉体から離脱して、自在にあちこちを飛びまわることができる。その「魂」は、放浪する夫を見いだして舞い降り、3人目の子が死んだことや子どもたちが庭先に埋葬されていることを告げる。「みんなソロマハに殺されたの」
復活祭の前日、生き残っている村人たちが呼び集められた。全員、「この者たちは《増産目標》を遂行しなかった」と書かれたプラカードを首から吊るしている。このあと「家畜の群れ」のように村から追われる。そもそも「やっと命をつないでいる」状態だったので、次々に息絶えていった――このとき鞭をふるって村人を追いたてたのが、フェーディル・ソロマハだ。これはすべて、村役場から通達された「上からの命令」によるものだった。
ここで心にとめたいのは、ソロマハ自身も村人の一人だということである。モスクワから派遣された役人ではない。彼は「革命」に貢献したという名目で村人の見張り役の地位を得た。家々の煙突に煙があがれば即座に駆けつけて、竈に水を浴びせ、パン生地を床に叩きつけた。少年時代に虐待めいた扱いを受けた神父には追放処分で復讐した。支配される側の内部に監視の目を置く――独裁政治によく見られる構図ではある。
この物語には、えっ、そんなことが……と驚く劇的な展開があるのだが、だからこそ筋には触れないでおく。ただ一つヒントを言えば、ソロミーヤの「魂」が話の中心にある。この作品は、旧ソ連の生産本位の唯物的価値観にウクライナの「魂」を対置させている。
もう一編、私の心を強くとらえた小説をとりあげよう。「新しいストッキング」(エウヘーニヤ・コノネンコ)。「天空の神秘…」が土臭いのに対して、こちらは都会的だ。若い夫婦と夫の母が織りなす家族の力学に毒をまぶしてある。私は、これを読んだときに、失礼ながら橋田壽賀子ドラマと向田邦子ドラマを足して2で割ったような作品だな、と思った。ウクライナの人々の気質は、どこか私たちのそれに通じているのかもしれない。
話の導入部だけを書いておこう。夫の母はいま入院中で、手術しか治療の手だてがない病状だった。当時のウクライナには、執刀するにあたって相当額の謝礼を求める外科医がいたらしい。だが、母は「ソ連では治療代はかからないことになっている」と言い張って、貯金を取り崩す気がない。自分は「労働組合の古株」だ、「学術功労者」だ、「表彰状」もある――そんな強みを数えあげて、息子が医師にかけ合うよう仕向ける。
それで、息子は外科医を訪ねた。だが、外科医には謝礼の要求を引っ込める気配がない。「有り金はたくという額ではないと思いますがねえ」。そう言ってはばからないのだ。ただ、予想外の代案も提示してきた。場合によっては「極上のコニャック一瓶」でもよい、と言いだしたのだ。「ただし、そのコニャックは、あなたの美人の奥さんにわたしの家まで届けてもらいましょう」「お宅に?」「そうです」。――翌日夜、ひとりで待っているという。
このあと、この家族にどんなことが起こるかが、この小説の読ませどころだ。そこには「妻やパートナーならいくらでも取り替えがきく」「母親はこの世にたったひとりしかいない」と信じて疑わないマザコン男がいる。息子に向かって「あの女はおまえをうまくたらしこんで結婚したのよ」と陰口を言う姑がいる。そして、息子の妻と外科医がとった行動は……。この家族劇からは、橋田ドラマ風の嫁姑と向田ドラマ風の男女がともに見えてくる。
この短編集を読むと、ユーラシア大陸の真ん中に、私たちが知っている欧州とは異なるもう一つの欧州が健気に存在していることに気づく。たぶん、両者の差異が私の心をとらえるのだ。ウクライナ――その希少な風土がいま他国の戦車に踏みつぶされようとしている。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月18日公開、通算618回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
アメリカ人のなかには、金曜日に文章を発表する時に、”TGIF (Thank God It’s Friday)” という4文字を見出しの前につける人がいます。
例えば、
Common Sense
https://bariweiss.substack.com/
なんていうページでは、金曜日の記事の前には必ず “TGIF:” が付いています。
尾関さんの記事は毎週金曜日に発表されますから、
TGIF: ウクライナ、その肥沃な感性
TGIF: 全電源喪失とはこういうことか
TGIF: 外岡秀俊、その自転車の視点
っていうふうに、もうみんな TGIF ですね。
で、『現代ウクライナ短編集』ですが、その前に、本の脇に添えられたボルシチについてちょっとカラませてください。これ、ウクライナのボルシチではなく、ロシアのボルシチですよね? ボルシチってレストランごとに違い、家庭ごとに違うので、これぞロシア風とか、これぞウクライナ風とか、そんなものはないというのは承知の上で書いているのですが、ロシアとウクライナとでは「手元にあるもの」が違うので、写真のなかのボルシチの出来上がりはやっぱりロシアのレシピによるものだと思うのですが、どうでしょうか?
ウクライナの1930年代と1940年代は悲惨ですね。富農撲滅運動、農業の集団化、収奪、強制移住、強制収容所への収容、飢饉、国境封鎖、粛清、虐殺。。。 処刑された人、乱暴されて死んだ人、殺された人、衰弱して死んだ人、餓えて死んだ人を合わせれば、そして独ソ戦で死んだ人を合わせれば、ほんの15年たらずのあいだに数千万の人たちが死んでしまったようで、なんともいえません。
ウラス・サムチュク(Ulas Samchuk)の『マリア(Maria)』という小説があって、1932年~33年のウクライナの飢餓の悲惨さが伝わってきて、最後まで読むことができませんでしたが、『現代ウクライナ短編集』はどうなのでしょうか? 普通に読むことができるでしょうか? ということで、さっそく注文しました。この本を紹介してくださって、どうもありがとうございました。
38さん
わが家のボルシチ、ウクライナ風をめざしてビーツをたくさん入れました。
ウクライナ産ビーツがないか探したが見つからず、結局、信州産に。
だから、あえて言えば日本風。
ウクライナ風をめざした日本風。
むむむ。信州産のビーツですか。
たくさん、入っているんですね。
それにしても美味しそうで。。。
羨ましい限りです。いいなあ。。