今週の書物/
『ペンギンの憂鬱』
アンドレイ・クルコフ著、沼野恭子訳、新潮社
キエフがキーウになった。これは正しい。地名は、たとえ国外での呼び名であれ、できる限り地元の人々の意向に沿うべきだからだ。ただ、この表記変更を日本の外務省が決めたとたん、国内メディアがほとんど一斉に「右へならえ」したことには違和感を覚える。
表記を変えるなら、メディアが率先して敢行すればよかった。一社だけでは混乱を招くというなら、日本新聞協会に提起して足並みを揃えることもできただろう。こうしたことは平時に決めるべきものだ。キーウ表記を求める「KyivNotKiev運動」をウクライナ政府が始めたのは2018年だから、時間はたっぷりあった。この運動がウクライナの世論をどれほど強く反映したものかを冷静に見極めてから、自主判断することもできたはずだ。
それはともかく、今回のロシアによるウクライナ侵攻では、これまでと違う戦争報道が見てとれる。日本国内のメディアが、というよりも西側諸国のメディアがこぞって、戦闘状態にある二国の一方に肩入れしているように見えることだ。ベトナム戦争以降の記憶を思い返しても、そんな前例はなかったように思う。それは一にかかって、この侵攻が不当なものだからだ。大国が小国を力でねじ伏せようとする構図しか見えてこない。
ただ、その副作用も出てきている。ウクライナの戦いはロシアの侵攻に対するレジスタンス(抵抗運動)だが、それをイコール民族主義闘争とみてしまうことだ。もちろん、その色彩が強いのは確かだが、両者は完全には同一視できない。ところが、今回の侵攻はあまりに不条理なので、「レジスタンス」という言葉に拒否感がある思想傾向の人までウクライナに味方する。このときに民族主義がもちだされ、称揚されることになる。
日本外務省のウェブサイトによると、ウクライナにはロシア民族が約17%暮らしている。ほかにもウクライナ民族でない人々が数%いる。この国は多民族社会なのだ。だから、レジスタンスにはその多様性を守ろうという思いも含まれているとみるべきだろう。
で、今週は『ペンギンの憂鬱』(アンドレイ・クルコフ著、沼野恭子訳、新潮社、2004年刊)。略歴欄によれば、著者は1961年、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれ、3歳でキーウに転居、今もそこに住んでいる。出身地は誕生時、レニングラードと呼ばれていた。移住先はこのあいだまでロシア語読みキエフの名が世界に通用していた。都市名の変転は、著者が激動の時代を生きてきたことの証しだ。この本の原著はソ連崩壊後の1996年に出た。
この小説はロシア語で書かれている。「訳者あとがき」によると、著者は自身を「ロシア語で書くウクライナの作家」と位置づけている。19世紀の作家ゴーゴリが「ウクライナ出身だがロシア語で書くロシアの作家」を「自任」したのと対照的だ。その意味では、クルコフという小説家の存在そのものが現代ウクライナの多様性を体現している。ただ最近は民族主義の高まりで、ウクライナ語の不使用に風当たりが強いらしいが。(*)
中身に入ろう。主人公ヴィクトルは「物書き」だ。キエフ(地名は作中の表記に従う、以下も)に暮らしている。作品の冒頭では、動物園からもらい受けた皇帝ペンギンのミーシャだけが伴侶だ。ある日、新聞社を回って自作の短編小説を売り込むが、冷淡にあしらわれる。が、しばらくして「首都報知」社から執筆依頼の打診が舞い込む。存命著名人の「追悼記事」を事前に用意しておきたいので、匿名で書きためてほしいというのだ。
ここでは私も、新聞社の内情に触れざるを得ない。新聞記者は、締め切り数分前に大ニュースが飛び込んできても、それに対応しなくてはならない。このため、いずれ起こることが予想される出来事については現時点で書ける限りのことを書いておく。これが予定稿だ。その必要があるものには大きな賞の受賞者発表などがあるが、著名人の死去も同様だ。経歴や業績、横顔や逸話などをあらかじめ原稿のかたちにしておき、万一の事態に備える。
予定稿はどんな種類のものであれ、社外に流出させてはならない。事実の伝達を使命とする新聞には絶対許されない非事実の記述だからだ。とりわけ厳秘なのが、訃報の予定稿。世に出たら、当事者にも読者にも顔向けができない。だからこの作品でも、編集長は「極秘の仕事」とことわっている。そんなこともあって、「首都報知」社では追悼記事の予定稿を「十字架」という符牒で呼ぶ。これではバレバレだろう、と苦笑する話ではあるのだが。
ヴィクトルはまず、十字架を書く人物を新聞紙面から拾いだす。第1号は作家出身の国会議員。目的を告げずに取材に押しかけると、議員は喜んで応じてくれて、愛人がいることまでべらべらしゃべった。愛人はオペラ歌手。そのことに言及した原稿を書きあげると、編集長は喜んだ。第2号からは省力化して、新聞社から提供される資料をもとに執筆することになる。こうして作業は進み、たちまち数百人分の十字架ができあがった。
ここで気になるのは、その資料の中身だ。それは「最重要人物(VIP)」の「個人情報」のかたまりで、これまでに犯した罪は何か、愛人は誰かといったことが書き込まれている。資料を保管しているのが、社内の「刑法を扱っている」部門というのも不気味だ。
ある朝、編集長から電話がかかる。「やあ! デビューおめでとう!」。ヴィクトル執筆の十字架が初めて紙面に出たというのだ。たしかに新聞には、あの議員の追悼記事が自分の書いた通りに載っていた。ただ、死因がわからない。出社して編集長に聞くと、深夜、建物6階の窓を拭いていて転落したという。その部屋は自宅ではなかった。編集長は「いいことも悪いことも全部私が引き受ける!」と言った。なにか込み入った事情がありそうだ。
このときのヴィクトルと編集長のやりとりは、十字架は本当に追悼記事なのか、という疑問を私たちに抱かせる。編集長は原稿から「哲学的に考察してる部分」を削るつもりはないと言いながら、それは「故人とはまったく何の関係もない」と決めつける。その一方で、社が渡した資料の「線を引いてある部分」は必ず原稿に反映させるよう強く求める。ヴィクトルが「物書き」の技量を発揮したくだりなど、増量剤に過ぎないと言わんばかりだ。
この小説の恐ろしさは、十字架の記事が個人情報の記録と直結して量産されていくことだ。その限りでヴィクトルは、記者というよりロボットに近い。私たち読者は新聞社の向こう側に目に見えない存在の暗い影を見てしまう。この工程を操っているのは、旧ソ連以来の“当局”なのか、体制転換期にありがちな“闇の勢力”なのか。そんなふうに影の正体を探りたくなる。これこそが、この作品が西側世界で関心を集めた最大の理由だろう。
実際、ヴィクトルの周りには不穏な空気が漂う。ハリコフ駐在の記者からVIPの資料を受けとるために出張すると、その駐在記者が射殺されてしまう。十字架1号の議員の愛人が絞殺される事件も起こる……。こうしていくつもの死が累々と積み重なっていく。
半面、この小説には別の魅力もある。ヴィクトルの周りに、読者を和ませる人々が次々に現れることだ。新聞の十字架記事とは別に、生きている人物の追悼文を注文してくる男ミーシャ(作中では「ペンギンじゃないミーシャ」)、ヴィクトルの出張中、ペンギンのミーシャの餌やりを代行してくれた警官のセルゲイ、元動物園職員で一人暮らしをしている老ペンギン学者ピドパールィ……みんな謎めいているが、不思議なくらい優しい。
ヴィクトルの同居人となるのは、「ペンギンじゃないミーシャ」の娘ソーニャ4歳。父ミーシャが姿を消すとき、書き置き一つで預けていく。そして、ソーニャの世話をしてくれるセルゲイの姪ニーナ。ヴィクトルと彼女は、なりゆきで男女の関係になる。この二人とソーニャとペンギンのミーシャ――その4人、否3人と1頭は、まるでホームドラマの家族のように見える。そこには、十字架の記事をめぐる闇とは対極の明るさがある。
登場人物には善良な人々が多いように見えるが、実はそれが罠なのかもしれない。そう思って読み進むと、やはり好人物だとわかって、再びホッとしたりもする。人々が優しくても社会は怖くなることがある。読者にそう教えてくれるところが、この作品の凄さか。
*朝日新聞2022年3月16日朝刊に著者クルコフ氏の寄稿がある。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年4月22日公開、通算623回
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尾関さん、
尾関さんがおっしゃる通り、人々が優しくても社会は怖くなることがありますね。
「怖くて優しい」のか「優しくて怖い」のかはともかく、優しい人が集まって怖い社会を作るというのは、世界中のあちらこちらで長いあいだにわたって見てきたことだけれど、それはいったいどう考えたらいいのでしょう?
優しい人たちが何も考えずに暮らしていると、いつの間にか怖い社会が出来上がっている。そんな感じでしょうか? そんな時、優しい人たちに責任はあるのでしょうか?
与えられたものを受け取るだけの学校で自ら考えないことを訓練されて育った優しい人たちは、自ら考えないから自分のやっていることは自分で決めたり選んだりしていないわけで、そんな人たちに自分でやったことの責任をとれとは言えない気がします。
何も考えない優しい人たちというのは、実に怖ろしい。そんなふうに考えてしまいますが、間違ってしょうか?
38さん
《何も考えない優しい人たちというのは、実に怖ろしい》
なるほど。
私が思うに、今の時代みんながミクロで優しくなっている。
マクロでも優しくなるには思考が必要なのに、ミクロの優しさで事足れりと思ってしまう。
それが怖いところですね。