今週の書物/
『一九八四年』
ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊
言葉の貧困は目を覆うばかりだ。ボキャブラリー(語彙)が痩せ細った、と言い換えてもよい。「緊張感をもって」「スピード感をもって」「説明責任を果たしてほしい」……政治家の発言を聞いていると、同じ語句が機械的に並べられている感じがある。
有名人が不祥事を起こしたときのコメントも同様の症状を呈している。「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」――記者会見があれば、ここで深々と頭を下げる。これは、官庁や企業の幹部が身内の不祥事について謝るときも同様だ。
市井の人々も例外ではない。たとえば、大リーグの大谷翔平選手がリアル二刀流の試合で勝利投手となり、打者としても本塁打2本を連発したとしよう。テレビのニュース番組が街を行き交う人々に感想を聞いたとき、返ってくる答えは「勇気をもらいました」「元気をありがとう」。勇気であれ元気であれ、心のありようは物品のように受け渡しできないはずだが、なぜかそう言う。世間には紋切り型のもの言いが蔓延している。
これらを一つずつ分析してみれば、それぞれに理由はある。政治家の「緊張感」や「スピード感」は、無策を取りつくろうため常套句に逃げているのだろう。有名人や官庁・企業幹部の「重く受けとめています」「お騒がせして申し訳ありません」は危機管理のいわば定石で、瑕疵の範囲を限定して訴訟リスクを下げようという思惑が透けて見える。そして「勇気」や「元気」は万能型の称賛用語で、ときには敗者を称えるときにも用いられる。
ただ、言葉の貧困から見えてくる共通項もある。今、私たちが無思考の社会にいるということだ。思考停止の社会と言ってもよいが、思考を途中でやめたわけではない。思考すべきところを思考せず、それを避けて通ったという感じだ。思考回避の社会とも言えないのは、思考を主体的に避けたのではなく、自覚しないまま無思考状態に陥っているからだ。私たちはいつのまにか、ものを考えないよう習慣づけられてしまったのではないか。
で、今週は言葉と思考について考えながら、引きつづき『一九八四年』(ジョージ・オーウェル著、高橋和久訳、新訳版、ハヤカワepi文庫、2009年刊)をとりあげる。著者は1949年の視座から1984年の未来を見通したとき、そこに監視社会という反理想郷(ディストピア)が現れることを小説にした。先週の当欄に書いたように、そのディストピアでは人々の思考も操られている。そして、このときに言葉が果たす役割は大きそうなのだ。
『一九八四年』が秀逸なのは、そこに新しい言語「ニュースピーク」を登場させていることだ。たとえば、前回の拙稿(*1)にも書いたように、主人公のウィンストンは勤め先の真理省記録局で新聞の叙勲記事を書き換えるよう命じられるのだが、その業務命令もニュースピークで書かれているのだ。訳者は、それを巧妙に日本語化している。「bb勲功報道 倍超非良 言及 非在人間 全面方式書直 ファイル化前 上託」という具合だ。
bbによる叙勲の報道は大変によろしくないものだった、記事に出てくるのは居もしない人物だ、全面的に書き直せ……そう読み解ける。ここでbbは、英、米を含む大国オセアニアの「党」指導者ビッグ・ブラザーのことだろう。用件だけを伝えている感じの文面だ。
この言語がどんなものかは、この作品の末尾に添えられた「附録」を読むとわかる。「ニュースピークの諸原理」と題された一文だ。ニュースピークが「イギリス社会主義」の「要請」に適うように考えだされた「オセアニアの公用語」であること、1984年の時点では標準英語(オールドスピーク)と併用されていたが、2050年ごろまでには完全に置き換わるだろうと予想されていたことなどが、もっともらしく解説されている。
「イギリス社会主義(English Socialism)」は、略称「イングソック(Ingsoc)」。作品本体には、ビッグ・ブラザーの政敵の著書を引用するかたちでその説明がある。それはオセアニアの「党」が掲げる思想で、「党がオセアニアにある全てを所有する」という体制を支えている。支配層の中心は官僚、科学者、技師、労働組合活動家、広告の専門家、教師、報道人……などだという。中間層がいつのまにか一党独裁を生みだした、という感じか。
「附録」に戻って、ニュースピークの一端を紹介しよう。一つ言えるのは、それが英語を簡素にしていることだ。標準英語では、動詞の「考える」がthinkで名詞の「思考」はthoughtだが、ニュースピークでは動詞であれ名詞であれthinkでよい。これと反対に、名詞を動詞として使いこなす例もニュースピークにはある。「切る」はcutではなくknifeなのだ。これらの簡略化は、私のように英語を母語としない者には大変ありがたい。
簡略化は、このほかにもある。ニュースピークでは「悪い」のbadが不要で、「非良」のungoodが代用される。形容詞を強めたければ、語頭に「超」のplusや「倍超」のdoubleplusをくっつければよい。前出の「倍超非良」はdoubleplusungoodだったのだろう。
だが、ニュースピークには怖い側面がある。ひとことで言えば、意味を痩せ細らせることだ。典型例はfreeという言葉。標準英語では「自由な/免れた」の両方を意味するが、ニュースピークでは「免れた」の語意が強まった。「この犬はシラミを免れている」との趣旨で「シラミから自由である」という表現が成り立たないこともないが、「政治的に自由な」「知的に自由な」はありえない。この種の「自由」は言語空間から消滅したのだ。
同様のことはequalについても言える。equalという形容詞は、ニュースピークでも「すべての人間は等しい」という文に用いられるが、このときequalに込められた意味は体格や体力が「等しい」ということで、「平等」の概念はまったく含意していない。
これらの特徴から、イングソックがニュースピークに何を「要請」したかが浮かびあがってくる。それは、「イングソック以外の思考様式を不可能にする」ことだ。本稿のまくらにも書いたように、思考と言葉は密接な関係にある。だから、意味の痩せ細った新言語が広まれば、「異端の思考」をしそうな人が現れても「思考不能」の状態に追い込める――。オセアニアの「党」は、そんな「思惑」があってニュースピークを導入したのである。
もちろん、「思惑」通りには事が進まない。1984年の時点ではオールドスピークが日常言語だったから、ニュースピークで会話や文書を交わしても、オールドスピークにまとわりついた「元々の意味」を忘れられない。ここで威力を発揮するのが、「二重思考」だ。これは前回の拙稿で紹介した通り、とりあえずは「ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる」という思考法だ。そのうえで危ない考えを回避していく。
このくだりで、著者は不気味な予言をしている。将来、ニュースピークしか知らない世代に代替わりしたら、その人々は「自由な」に「知的に自由な」の意があり、「等しい」が「政治的に平等な」も意味するとは思いも寄らないだろう、というのだ。「自由な」や「等しい」は即物的になり、その語句に詰め込まれた思想はすっかり剥ぎとられてしまう。言葉が思考から切り離され、ただの意思伝達手段、いわば信号になっていく感じか。
昨今の「緊張感をもって」「重く受けとめて」「勇気をもらいました」という常套句も、私にはニュースピークの一種に思われる。思考の気配がなく、定石の棋譜のようにしか聞こえないからだ。人類の前途にはオールドスピークからの完全離脱が待ち受けているのか。
☆引用部にあるルビは原則、省きました。
*1 当欄2022年6月24日付「オーウェル、嘘は真実となる」
*2 本書『一九八四年』については、当欄2022年1月21日付「宗匠のかくも過激な歌自伝」でも言及しています。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年7月1日公開、同日更新、通算633回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん
「ニュースピーク」は凄いですね。世の中には言論統制がありますが、ここにはまだ言論というものが存在し、その言論の自由な披歴を禁止される。
ところが「ニュースピーク」では言論を形作るひとつひとつの言葉がBBの意向に沿った形で”与えられる”ので、その枠組みを越えた考えは生まれない。
それと知らずに心の中まで支配される究極の独裁というわけですか。
一方で分からないのは日本の思考停止とも呼ぶべき現状。私も尾関さんが指摘されたことをよく考えますし、同感なのですが、何がこうさせているのかが分からない。
外部から強制されてもいないのに、国民が自分からせっせと言葉を痩せさせている印象です。
尾関さんが挙げられなかった言葉の中に「癒された」がありますね。これを聞くと、日本人は全て「癒される必要があるほどに傷ついている」という国民的合意でもあるのかな、と笑いたくなります。大和民族の没落か?
言葉が痩せると批判精神も痩せるのでは?
ときどき批判されて然るべきだろう、と思う言葉に出会います。例えば「全世代型社会保障」。社会保障制度はその本質において全世代を対象にしなければ構想立案できませんから明らかにおかしい。でも誰もこの言葉に異議を唱えない(私の知る限り)。
高齢者が厚遇されているという考えを浸透させ、若年層にもっと目配りすることで好意を得て憲法改正に持ち込むための戦略かなと邪推したりしています。
「異端の思考」に触れるべく、いわゆる泡沫候補の政見放送でも見ようかなという気分になってきました。
虫さん
《尾関さんが挙げられなかった言葉の中に「癒された」がありますね》
たしかに「癒す」の多用も気になります。
もともと「癒す」には病や傷を治すという意味がありますが、最近はそういう具体的な対象の存在感が薄らいで、ほんわりした物事への褒め言葉になっている。
どこか、「勇気」や「元気」に通じますね。
「勇気」「元気」が動的なポジティブイメージなら、「癒す」は静的なポジティブ。
私は、これらはみな現代日本社会型のニュースピークではないか、と思います。
イングソックのニュースピークは、肉をそぎ落として即物的な骨となる新言語。
日本版のニュースピークは骨なしに気分だけがふわふわしている新言語。
これでは、論争もできない。
思考が骨抜きにされている感じです。
尾関さん、虫さん、
刺激のある、考えさせられる文章、ありがとうございます。いろいろ考えましたが、山に囲まれ湖を前にして、考えは散らばってゆくばかり。それでもぼんやりと浮かんできた考えを少しだけ書かせていただきます。
オーウェルによれば、ニュースピークは、思考の範囲を狭めるように設計されている。単語を削除したり変更したり、単語を別の単語に置き換えたり、品詞に互換性を与えたり、都合のいい単語を作ってしまったりと、文章のレベルでなく単語のレベルで操作される。言葉を痩せさせることによって、思考が痩せていくという設定です。
でも、今、実際に起きているのはまったく逆で、思考が痩せてしまった結果、言葉が痩せてしまっている。紛らわしくて欺瞞的な官僚が用意した言葉は、頭のいい官僚たちが計算して発しているのではなく、思考停止に追い込まれてしまった結果なのではないか。「思考が痩せた結果、言葉が痩せてしまった」と考えるとすべて納得がいきます。
偉そうな人が「ネットでしょうもない言葉ばかりを読んでいると、自分の言葉が痩せていく」と言っていましたが、原因はネットばかりでない。漫画では文字は極限まで省略され、アニメやYouTubeで用いられる言葉は耳に優しい単語ばかり。1枚の絵は1000の言葉に勝るというけれど、ニュアンスのない直截的な言葉に囲まれていれば、言葉が痩せるのは自然ではないでしょうか。
メールもメッセージも短文が要求されるから、語彙は自然と少なくなります。人と話をしたり文章を読んだり書いたりしながらの思考は生活の中から失われ、乏しい言葉を通して見る社会には大きな問題は見えてこない。言葉が乏しすぎて思考が単純化し、人生の豊かさは失われてゆく。
「発音の数、語彙の数、文字の数の減少する時代とは貧困な時代であり、文化が疲弊し精神の凋落する時代である」という文章を目にしましたが、シグナル的機能に堕ちた言葉にシンボル的な機能を取り戻して、日常使う言葉を豊かにしてゆけばいい。韓国では詩が流行り、言葉のニュアンスが増している。中国では文章を書くことが社会でうまくやっていくことにつながるから、論理的な表現が広がっている。ヨーロッパでは日本人が受験勉強をしている年齢で哲学を学ばされるから、言葉の力を信じることになる。それに反して、日本とか北朝鮮とかアメリカとかラテンアメリカとかアラブ諸国とかサハラ以南のアフリカとかでは、言葉は痩せていく。
言葉が痩せてしまった人たちに21世紀の繁栄はない。そう思うと、今の日本が悲しく映ります。考えてみれば、アメリカ軍に駐留されたことが悲劇の始まりで、漢字制限、字形の簡略化、仮名遣いの改変などにより、言葉から何かが消えてしまった。今の聞き言葉はコミュニケーションの媒体でしかなく、言葉に込められた心情も、情緒も消え、感じる力も失ってしまったのではないか。
ニュースピークを押し付けられたのではなく、自発的にニュースピークを獲得してしまった人たち。すごいというか、滑稽というか、悲しいというか。複雑な気分になります。
余計なことを書く前に、ここで止めます。それにしても、書きたいことがたくさん浮かんでくるいいテーマですね。
38さん
《「思考が痩せた結果、言葉が痩せてしまった」と考えるとすべて納得がいきます》
権力者が言葉を痩せさせて「異端」の思想を駆逐するよりも早く、人々の側で思考が萎え、思想が消滅していないか。
異論を唱えることが禁忌であるかのような空気。
息詰まる思いです。
38さん
私のコメントへのご感想も含めたコメントに感謝いたします。
私が「言葉が痩せると批判精神も痩せるのでは?」と書いた時、批判精神(思考)は言葉で組み立てられているからという思いがありました。でも、どこかに引っかかりがあり、最後の「?」はそれゆえの「?」でした。
そして、38さんの「思考が痩せた結果、言葉が痩せてしまった」という文章を読んだとき、”これだ!”と膝を叩いた次第です。つまり、私に「?」を書かせたのは、逆の可能性もあることに思いが至らぬもどかしさであったことに気づかされたわけです。
私の造語に「キセル思考」というものがあります。説明の例えに自動発券機を使うことが多いのですが、無賃乗車のことではありません。こんな具合です。
200円をコインロットに入れれば瞬時に200円の乗車券が出てくる。機械の条件反射のように見えても、この「瞬時」の間に実は機械の中で複雑な機序が働いている。一方で私が何か質問を受けて瞬時に答えるとき、多くの場合、その反応は単なる条件反射で「瞬時」の中身は空っぽ。これを
「キセル思考」と呼ぶわけですが、実際にはそこに思考はありません。
元首相が殺害されましたが、昨日は「民主主義の根幹である選挙の只中での言論の自由への暴挙」一色でした。政治テロであるかどうかも分からない段階でのことです。
結局、政治的背景の無い私怨による犯行であることがほぼ明らかになった今日も、異口同音に言論の自由だとか民主主義だとか語っています。選挙中の犯行も、狙い易いからであって民主主義とは何の関係もない。
「権力を背景に民主主義を蹂躙し、教育基本法の改正などで言論の自由を抑圧してきたひとりの政治家が、私怨により殺されて言論の自由を失った」というのが今回の事件の基本的構図ですが、誰もそう言わずに同じことを発言しています。
こう書いてきて思いました。「キセル思考」よりも「思考の無賃乗車」の方が良さそうですね。自ら思考せず他者の思考を借りてくる。確かに思考が痩せて言葉が痩せていますね。そして、言葉が痩せてさらに思考が痩せる。それも自分たち自ら。
SNSで叩かれることの恐れや、なんとなく多様な思考を抑圧する政治的空気に飲まれながら私達の言葉や思考はさらに痩せていくのでしょうか。