植草甚一日記で「私」を再生する

今週の書物/
『植草甚一コラージュ日記①東京1976
植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊

経堂駅北口――かつて高層ビルがあった

先週の当欄は、私が敬愛する愛称J・J、評論家植草甚一の日記を読んだ。手にとったのは『植草甚一コラージュ日記①東京1976』(植草甚一著、瀬戸俊一編、平凡社、2003年刊)。手書きの文面が、そのまま読める。執筆時の空気が伝わってくる本だ。

私の場合、その感覚がいっそう強い。なぜならば、著者と私は同じ時代、同じ町に住んでいたからだ。もっと踏み込んで言えば、後述するように、著者は日記を書くとき、私から100mほどの地点にいた。風が吹けば同じ空気を吸うこともあっただろう。

個人的な事情を言えば、1976年という年も私には特別な意味がある。私はそのころ理系の大学院にいて、人生の前途をどのように歩むかで迷っていた。先輩の多くは電機会社の技術者になっていたが、それとは異なる道に進みたいと思っていたのだ。今振り返れば、あの一年は一瞬一瞬が私にとってカオス現象の初期値のようなものだった。それがちょっとずれていれば、今の私はこの私とまったく違う私になっていたに違いない。

だから、植草甚一日記の記述を今読んで、ああ、そんなこともあったなあ、と思い返すことは、私にとって青春期の心模様を再体験することでもある。著者J・Jの五感を通して47年前の自分が蘇ってくるのだ。私は今回、そんな不思議な気分になった。

ということで今回は、本書に収められた植草甚一1976年1~7月の日記から私にもかかわる断片を拾いあげ、私自身の1976年1~7月を再構築してみたいと思う。

まずは、日記の謎めいた記述から。1月2日の欄に「風呂にはいってから、こっちの部屋にくる」、1月4日には「ピザパイをたべ二時にこっちの部屋へ」――ここで「こっち」とは何だろうか。日記だからこその自分にしかわからない指示代名詞だ。脚注によると、著者は小田急経堂駅前の高層マンション10階に2室借りていて、うち一つを書庫兼書斎に使っていた。入浴や食事はあっちの部屋、日記を書くのは「こっち」というわけだ。

この記述だけで、私の脳裏に自身の1970年代が蘇ってくる。経堂駅北口付近は1960年代、小田急の車庫跡地にスーパーマーケットが出現、1971年にはそれが14階建てビルに生まれ変わった。下の階はスーパーや専門店街、上層階は賃貸マンションだった。著者は町内の線路沿いにある日本家屋に住んでいたのだが、駅前にビルが建つとまもなく移ってきた。現在、このビルはすでになく中層階の商業施設に代わっている(写真)。

日記から、このビルは著者にとってわが家同然だったことが見てとれる。先週の当欄では、著者が原稿の複写に文房具店のコピー機を使っていることを書いたが、その店はビル2階の専門店街にあった。各戸の郵便受けは1階にあったようで、元日には「一階へ年賀状を取りに行く」との記述がある。5月28日には「下の事務所へよったら一〇一二号室がとれたという」とも。「下の事務所」とは、階下にあったビル管理事務所のことだろう。

さて、1012号室が「とれた」とはどういうことか。脚注によれば、著者はすでに借りている2室では足らず、「三つめの部屋を借りることになった」のだ。10階の1010号室と1014号室に加えて、もう1室を手に入れた。著者はその夏、ニューヨーク行きの予定があり「これでこんどニューヨークで買うつもりの本の置き場所ができた」と安堵しているが、理由はそればかりではなさそうだ。日記を見ると、東京にいても本を買いまくっている。

実際、6月に入ると蔵書を新しい部屋へ運び込むようになる。「部屋が一つふえたので14号室のローカの本を移動しはじめる」(6月7日)、「九時に起きて14 号室の本を12号室にはこぶ」(6月8日、9時は午前)、「八時半から14号室の本を12号室へはこぶ」(6月10日、8時半は午後)。前述の「こっち」は1014号室だったのか。「このところ毎日つづけて本はこびをやっているので、くたびれて夜よく眠れるんだろう」(6月17日)

微笑ましいのは、著者が本の引っ越しにも愉悦を見いだしていることだ。6月18日には夫婦で渋谷に出かけ、美術展とコンサートのはしごをして午後10時に帰宅、それからまた、ひと仕事している。「二時まで本はこびと整理をやったが忘れていた本が出てくるから面白い」。1976年6月、著者は連日、書斎兼書庫の本を二つ隣りの部屋へヨイショヨイショと運んでいた。ときには朝、起床してすぐに、ときには深夜、午前零時を回っても。

で、これが私の世界と見事に交差する。そのころ、実家は経堂駅北口の商店街の裏手にあった。私の部屋は2階南面で、その窓辺に立つと前方100mほどのところに駅前ビルが聳えていた。見えるのは、ビル北面にある外廊下の列。階ごとに蛍光灯が等間隔に並んでいて、日が暮れると白い光が点々とともった。蛍光灯の配列は結晶格子のように規則正しく、無機的だった。毎夜毎夜、私はそんな寒々しい光景をぼんやり眺めていたのだ。

1976年6月も、その蛍光灯の列が私の視界に入っていたことだろう。私が目を凝らしていれば、10階の外廊下を高齢男性が本を抱えて歩く姿に気づいたのではないか。たとえ気がつかなくとも、私の網膜に著者が映っていた可能性は大いにある。(*1)

不思議な話だ。著者J・Jと私のニアミスは、本書を読まなければ私も気づくことなく一生を終えたことだろう。ところが半世紀ほどが過ぎて、著者入居のビルがあった場所の近くに古書店が生まれ、そこで本書に出あったことで私の過去が上書きされたのだ。

日記には、これ以外にも著者J・Jと私を結ぶ糸がある。元日の欄に「青野さんが青ちゃんの本ができたといって来てくれたうえ青野の羊かんをもらった」とあることだ。「青野さん」は東京・六本木の和菓子店主(脚注は店の所在地を「赤坂」としているが、この「青野」は「六本木」の店だと思う)。「青ちゃん」は店主の兄で、新劇俳優の青野平義。著者の親友だった。1974年に死去しているので、この本は「追悼文集かもしれない」と脚注にある。

和菓子店「青野」や青野平義については、当欄ですでに書いている(*2)。私の祖父と青野兄弟が遠い親戚の関係にあったのだ。私は幼いころ、正月には親に連れられて六本木の店を年始で訪ねていた。で、私は本書のこの記述に引っかかってしまった。

元日、青野の主人が経堂に来ていたらしい。ということは、私の実家にも立ち寄ったのか。当時は祖父も存命だったので、その可能性はある。覚えがないのは私が外出していたからか。ただ、青野の主人はこの日、兄ゆかりの人々に本を届けるためだけにあちこち訪ねまわっていたのであり、さほど近しくない親戚の家には足を延ばさなかったのかもしれない……。こうして私は、遠い昔の親戚づきあいの濃淡にまで気を揉むことになった。

余談になるが、1976年の冬から夏にかけては、日本社会を揺るがしたロッキード事件の捜査が進んだ時期にぴったり重なる。新聞の報道合戦は熾烈を極めた。著者も、これに無関心だったわけではない。5月5日の欄に「『週刊ピーナッツ』をまとめて買った」(原文のママ)という一文があったりするからだ。「ピーナッツ」は、疑惑の領収書に出てきた符牒。「週刊ピーナツ」は、事件を追及する市民グループが出した週刊紙の名前だ。

だが、事件のヤマ場、田中角栄元首相が逮捕された7月27日前後の日記に事件への言及はまったくない。27日は午後、出張で札幌へ発ち、翌28日は朝方ホテルで原稿「ペラ12枚」を書いた後、トークイベントかなにかで「若い人たち相手にしゃべった」とある。

植草甚一日記は、いわゆる偉人の回顧録ではない。市井の文人が個人的な些事を書きとめたものだ。だが、だからこそ、忘れかけていた時代の日常が詰め込まれている。迷うことばかりだった一青年の心模様が半世紀後に蘇るのは、そのせいだろう。
*1 外廊下にはフェンスがあるから、著者の姿が陰に隠れてしまったことはありうる。ただ、私はこのビルが映り込んだ画像をネット検索で見つけ、フェンスが少なくとも上部は柵状で見通しがよいことを確認した。
*2 当欄2020年5月22日付「もうちょっとJJにこだわりたい
(執筆撮影・尾関章)
=2023年4月14日公開、通算674回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
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