今週の書物/
『苦海浄土――わが水俣病』
石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊
ジョニー・デップが製作して主演する映画「MINAMATA――ミナマタ」が今秋、公開された。1970年代、熊本県水俣の地に住みついて、公害病である水俣病の現実を世界の人々に伝えた米国の写真家ユージン・スミス。その活動を跡づける作品だ。
私がこの映画のことを知ったのは、テレビのニュースからだ。たまたま秋口に読んでいたのが、文庫版『苦海浄土――わが水俣病』(石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版)だった。時間を見つけては少しずつ読み進んでいたので、頭のなかに「ミナマタ」が宿っていた。そんなとき、テレビから「ミナマタ」が聞こえてきたのだ。めぐり合わせの妙に驚いた。これを奇貨として、今回は『苦海…』をとりあげることにする。
当欄の前身でも打ち明けたことだが、私はこの本をこれまで完読していなかった(「本読み by chance」2018年3月2日付「石牟礼文学が射た近代という病」)。『苦海…』は1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞にいったん選ばれている。著者本人が受賞を辞退したため、作品の一部は「候補作」として『文藝春秋』誌(1970年5月号)に載った。それを読みかじって作品世界の底知れなさに圧倒され、以来、敬遠してしまったのだ。
拙稿「石牟礼文学が射た…」は、著者の石牟礼道子さん(1927~2018)が亡くなった直後に書いた。本来ならあのときに『苦海…』全編を読み通すべきだった。だが、私がとりあげた本は、地元紙記者が執筆した『水俣病を知っていますか』(高峰武著、岩波ブックレット)だった。なおも敬遠を続けたのである。それではいけない、という思いも残った。だから先日、書店の中古本コーナーで『苦海…』を見つけると、それをすぐに買い込んだ。
で、今回は巻末解説を含む400ページ余を読み切ったのだが、実はこれでも完読ではない。『苦海…』は、この本の刊行後に第2部、第3部が続いており、副題に「わが水俣病」とあるものは第1部にすぎない。この作品は、ほんとうに底知れないのである。
その第1部を読んでわかったのは、意外にも記録性が高い、ということだ。半世紀前の第一印象のせいもあって、この作品では水俣の人々、とりわけ水俣病患者たちが内なる思いをひたすら語っている、という先入観があった。だが実際は、それにとどまらない。化学物質の大量生産拠点が有機水銀という毒物を吐きだし、それが地産地消の地域社会に生きる人々の生をむしばんでいったという水俣の現代史が見渡せるつくりになっている。
この本には生の資料が頻出する。たとえば、新日本窒素肥料(現・チッソ)の附属病院医師、細川一博士が1956年8月、患者30人の診療結果をまとめた報告書。その病は、博士自身が同年5月に「原因不明」の神経疾患として保健所に届けていたものだ。これが「水俣病」の初確認とされる。博士は後年、病因が同社の排水にあることを動物実験で確かめたが、会社の意向で公表できなかった。科学者の良心と企業の理屈の板挟みになった人である。
この報告書は、水俣病確認直後の貴重な臨床記録だ。「まず四肢末端のじんじんする感があり次いで物が握れない。ボタンがかけられない。歩くとつまずく。走れない。甘ったれた様な言葉になる。又しばしば目が見えにくい。耳が遠い。食物がのみこみにくい」と、逐一症状が記されている。「増悪」「漸次軽快」などの医師用語もそのままだ。「後貽症」(後遺症のこと)には「四肢運動障害、言語障害、視力障害(稀に盲 難聴等)」とある。
報告書の結びでは「家族ならびに地域集積性の極めて顕著なこと」や「海岸地方に多いこと」も指摘されている。海岸部に集中しているのなら海が関係しているのだろう、同一家族に多いのなら食生活が原因かもしれない――そんな疑いをにおわせる記述だ。
この本には『熊本医学会雑誌』(第31巻補冊第1、1957年1月)に載った論文も出てくる。長文の引用だ。それによれば、この病気の多発集落は海寄りの傾斜地にあり、住人には「近海並びに、港湾内での漁獲に従事するものが多い」。食事面では副食で「漁獲の魚貝類を多食する」との記述もある。論文は、発病は「共通原因」の「長期連続曝露」によるとしたうえで、その「原因」を「汚染された港湾生棲の魚貝類」に絞り込んでいる。
『熊本医学会雑誌』の同じ巻からは、別の論文も引用されている。この病気にかかった猫の観察記録だ。「踊リヲ踊ッタリ走リマワッタリシテ、ツイニハ海ニトビコンデシマウ」「前脚ハ固定シタママ後脚デ地面ヲケルタメ、人間ノ逆立チト同様、体ガ浮キ上ガルヨウニナル」――漢字カタカナ交じりの武骨な文字列。意味を読みとろうにもすんなりとはいかない。猫の目に映る世界も同じようにぎこちなくなっているのか。そんなふうに思えてくる。
もちろん、『苦海…』最大の読みどころは水俣病患者の生きる姿、発する言葉にある。第一章に登場する少年「九平」も、その一人だ。庭で「おそろしく一心に、一連の『作業』をくり返していた」。ラジオのプロ野球中継が大好き。「作業」は野球の練習なのだ。ただ、「彼の足と腰はいつも安定を欠き」「へっぴり腰ないし、および腰」――この描写によって、後段に出てくる細川報告書の「四肢運動障害」が血肉化されて見えてくる。
第三章「ゆき女きき書」では、「ゆき」という患者が市立病院の病室で語りつづける。「嫁に来て三年もたたんうちに、こげん奇病になってしもた」「海の上はほんによかった」「ボラもなあ、あやつたちもあの魚どもも、タコどもももぞか(可愛い)とばい」(太字箇所に傍点)――これは、自ら漁に出て海の幸とともに暮らしていた人の真情だろう。医学会雑誌にある「汚染された港湾生棲の魚貝類」の「長期連続曝露」の現実がここにある。
作品全編を通してみると、このように主観と客観が巧妙に組み合わされている。著者の目に映る光景や、著者の耳がとらえた言葉は、水俣病という病が人間のありようにどんな影響を与えたかを生々しく、主観的に伝えてくれる。一方で、その合間に挟み込まれた報告書や論文などは無味乾燥である分、客観性があって、見たこと聞いたことの嘘のなさを裏打ちしてくれる。その二つの効果が見事に響きあったのが『苦海…』ではないか。
それで改めて思うのは、『苦海…』が1970年、第1回大宅壮一ノンフィクション賞の選考審査に合格していることだ。大宅賞は、ノンフィクションに的を絞っている。1970年は初回だったのだから、当然、ノンフィクション性が高く評価されたとみるべきだろう。だが私たちは、作品の価値を水俣病の患者、家族の声を紡いだところにばかり見いだしがちだ。もう少し、ノンフィクション作品としての構造に関心を寄せてもよいだろう。
と、やや結論めいたことを書いたのだが、私にはもう一つ大いに気になることがある。巻末解説「石牟礼道子の世界」が、「実をいえば『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない」と断じているのだ。その執筆者である渡辺京二さんは、石牟礼さんが1965~66年に『苦海…』の原型となる文章を連載した『熊本風土記』誌の編集人だ。作品誕生の事情をよく知っている。その人の言葉だから聞き流せない。
渡辺解説によると、石牟礼さんは患者たちの家をさほど足繁くは訪れていない。訪問時にノートや録音機を持参しなかった、ともいう。彼はあるとき、『苦海…』にある患者の言葉は実際に口に出して語られたものなのか、という疑念をぶつけてみた。「すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった」。そして、こんな答えを返したという。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」
元新聞記者としては、驚くよりほかない。取材相手の発言を聞いて、主語と述語がつながらなかったり、「てにをは」がでたらめだったりするとき、書き手が相手の意をくみとって文を整えることはありうる。だが、それは最小限にとどめるべきものだ。ところが『苦海…』の著者は、気後れすることなく「心の中」を「文字にする」と言ったという。この内幕話は、私がこの作品を読んで受けた「記録性が高い」という印象を全否定しかねない。
そう言えば、この作品では事実と虚構の線引きがあいまいだ。登場人物には固有名詞が付されているが、それが実名なのか仮名なのかがはっきりしない。人物ばかりではない。水俣病の原因を「汚染された港湾生棲の魚貝類」とにらんだ前述の論文は、表題を「水俣地方に発生した原因不明の中枢神経系疾患に関する疫学調査成績」と明記しているが、筆者名は書かれていない。だから読み手は一瞬、論文は架空なのかと疑ってしまう。
実は、この表題の論文が実在することは今、熊本大学図書館の公式サイトで確かめられる。そこには、執筆陣の氏名も列記されている。この作品が採用した文書はリアルとみてよいだろう。その記録性が、著者による患者の「心の中」の斟酌を支えているのである。
渡辺さんはこの解説で、『苦海…』を「石牟礼道子の私小説である」と言っている。「私小説」かどうかは別にして、「小説」らしさに満ちていると私も思う。小説ではあっても、リアルな大事件の深層を感じとったという一点でノンフィクションなのかもしれない。
次回も『苦海…』を続ける。今度は、小説としての側面に光を当てるつもりだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月22日公開、同月24日更新、通算597回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。
尾関さん、
石牟礼道子さんというと、ほんとうにたくさんのことが浮かんできます。
『椿の海の記』のなかの「みっちん」の持つ「水俣周辺の記憶」「魂の世界」というような大人びた無邪気さ。
『あやとりの記』のなかの「みっちん」にすでに芽生えていた「霊との交わり」「神との会話」というような「巫女」のような妖しさ。
『食べごしらえおままごと』のなかに見事に描かれた「男たちの胃袋をわしづかみ」にしてしまうような料理。
『西南役伝説』に描かれている戦争についての「土地の人たち」の権力を見る目。
『不知火』のなかの「紫尾山」「不知火の海」「天草の海」といった自然と神が一体となった感じ。
東京のビル群を見て「卒塔婆のよう」と感じる独特の感覚。
「友達になりたかった」という想いを持って皇后美智子に会い、友だちのように接した屈託のなさ。
水俣の町の家々を一軒一軒覚えていて地図に描いてしまうという記憶力のよさ。
そういうことを思い出して『苦界浄土』を読むと、石牟礼道子さんにとってドキュメンタリーなのかどうかとか、文学かどうかなんていうことは、どうでもいいことなのだと、そう思えてきます。彼女にとっての間違いのない事実が(ひとつしかない事実が)あったように思えます。
そんなことよりも、尾関さんにどうしても書いておきたいのは、『苦界浄土』の頃と今との比較です。
「海は広いから水銀は希釈される」は、そのまま、「海は広いから放射能汚染は希釈される」になっていて
「工場を守る」とか「会社を守る」という意識は、当時より、はるかに強くなってきていて
問題のなかにある「否定」の部分は次から次へと撤去され「肯定」だけが残っていく風潮に、抗うことはできないのは、今も同じで
「他者」を尊重しようにも、多くの人々のなかに「他者」を思いやる「繊細さ」がないのは、当時も今も同じで
今の作られた事実は、当時の偽りの事実と何の変わりもなく。。。
つまり『苦界浄土』の頃と今とでは、何も変わっていないか、むしろ悪くなっているように思えるのです。
今の日本にいて、自由でいることが難しくなってきていると感じています。自由でいようとすると、不自由になってゆく。若い人を見てみると、自分自身を実現しようとして、自分を見失っているようにしか見えません。達成主義のせいかどうか、自分の意見より、社会や組織の決まりごとを優先し、疲れ果てているようです。何かを達成しても、次の達成しなければならないことが待っている。先に進むことが困難な社会ができあがってしまったようです。同じで(同質で)あることが最重要な場所では、疲れて精神的な病に倒れる人が増えてしまう。水俣病を無視していた人たちが、時を経て、自分たちが心の病気に悩み始めている。そうとしか思えません。解決策はただひとつ。私はこの国を離れようと思っています。
「今の日本も、そう捨てたものでない」という多くの人たちの声が聞こえてきそうです。そう言われて、なにも言えない私がいます。なんだかなあ。。。という感じです。
石牟礼道子さんのことを考えると、いつもこんなふうに、気分が落ちてゆく。私にとって石牟礼道子さんは、そんな人なのかもしれません。
38さん
《『椿の海の記』のなかの「みっちん」の持つ「水俣周辺の記憶」「魂の世界」というような大人びた無邪気さ。
『あやとりの記』のなかの「みっちん」にすでに芽生えていた「霊との交わり」「神との会話」というような「巫女」のような妖しさ》
その豊かな読書歴に敬意を表します。
私が先入観から〈読まず嫌い〉でいたことが悔やまれてなりません。
そして、38さんの日本社会分析――
《自分の意見より、社会や組織の決まりごとを優先し、疲れ果てているようです》
にまったく同感。
自分で考えることをやめてしまった群衆のように思えます。
尾関さん
しばらく前、ユージン・スミスの代表作である「母子の入浴」の写真が映画「ミナマタ」に使用されるに至った経緯を新聞で読みました。
被写体であり水俣病を患った子供の両親が写真の著作権者であるスミスの妻であるアイリーンに写真の「新たな展示、出版」の中止を求めました。
この要望に同意したアイリーンは、当該写真に関する決定権は両親にあるとの誓約書を両親と交わしたそうです。
ところがアイリーンは映画「ミナマタ」にこの写真を使用し、両親には事後報告でありました。アイリーンに取材し、この記事を書いた方の取材後記だったかにアイリーンの悩みや葛藤を思わせるくだりがありましたがとんでもない。葛藤もヘチマもありません。アイリーンの行為を正当化する余地は全くありません。
そして石牟礼道子の「作文」。「文学」は言葉のアヤであり、水俣病の被害者に語ってもいないことを語らせることに正当化の余地は全くありません。
深刻な公害の被害者の声(語ることを拒否する沈黙も含めて)に誠実に応えなかったアイリーンも石牟礼道子も、公害の被害者であり弱者である人々の声を聞かなかったという点で、責任を認めようとしなかった企業と同じ「強者の立ち位置」にいたと考えざるを得ません。
虫さん
《映画「ミナマタ」にこの写真を使用し、両親には事後報告でありました》
確かにこれが本当の話なら「強者の立ち位置」ですね。
《「文学」は言葉のアヤであり、水俣病の被害者に語ってもいないことを語らせること》
このことについては私のなかに戸惑いがあります。
私のように新聞記者の訓練を受けた者からみれば「語ってもいないことを語らせること」は当然アウトです。
ただ、読者の側にはノンフィクションにフィクションが混ざり込むことを受け入れる感性もあるのではないか?
理由の一つは「ノンフィクション小説」という分野があることです。
現役の記者生活を終えて、私には「わが職業倫理」を普遍化することへのためらいがあります。
もう少し、考えてみたいと思います。
《ノンフィクションにフィクションが混ざり込むことを受け入れる感性》とか、《「わが職業倫理」を普遍化することへのためらい》
とか、とても興味深いです。ノンフィクションとフィクションのあいだの線は蜘蛛の糸のようで、ノンフィクションにこだわればこだわるほど、客観的であろうとすればするほど、真実から遠ざかる気がします。
「苦海浄土」はまぎれもないフィクションで、でもフィクションだからダメだとか、フィクションだから真実から遠いとか、そんなことではないと思います。「苦海浄土」は、水俣病についての多くのノンフィクションよりも、はるかに真実に近い気がする。新聞記事とか報告書といった事実とされるものより、真髄をついていると思うのです。
石牟礼道子さんの職業倫理は、きっと、真実を伝えることだったのだと思います。水俣病患者たちの事実が、チッソにとっての事実や、厚生省の事実や、水俣市の事実や、アカデミックな人たちの事実や、多くの日本人の事実と違っているときに、なにが真実かということをできるだけ多くの人たちに伝える。そう思って「苦海浄土」を書いたのではないか。だから、石牟礼さんにとって、それがノンフィクションかどうかは問題ではなかったのではないか。
ジャーナリストの尾関さんから「読者への責任」とか「書く事の覚悟」とかが感じられるように(残念ながら私にはそういうものが微塵もありません)、「苦海浄土」からも、責任や覚悟が感じられます。それが「苦海浄土」の魅力なのでしょう。
実際に水俣に行ってみて(若い頃と退職後の2回行きました)、町の臭い、重苦しい空気、チッソの工場の周りや駅の綺麗さとそれ以外の場所の汚さ、そんなものを見たり感じたりしてみて、水俣から離れられない人たちの悲しみが心に沁みました。それは、日本から離れられない今の日本人の悲しみに重なります。
「安井かずみ」が大好きだった私が、なぜあんなにも「石牟礼道子」に惹かれたのか、不思議なのですが、でも、70年の春に東京駅のそばで見た水俣から来た異様な人たちの水俣病を訴える異様な光景は、今でも目の後ろにくっきりと焼き付いています。水俣病が悲しいものだということを伝えた「苦海浄土」は、誰がなんと言っても、私にはいい本です。
38さん
《「安井かずみ」が大好きだった私が、なぜあんなにも「石牟礼道子」に惹かれたのか》
どこか通じるところがありますよ、二人には。
地下水脈のようなものが……。
すでにご覧いただいているかもしれませんが、当欄の前身では『安井かずみがいた時代』(島﨑今日子著、集英社文庫)を話題にしています。
http://ozekibook.jugem.jp/?eid=63
虫さん(追伸で)
私は、先行のコメントで「読者の側にはノンフィクションにフィクションが混ざり込むことを受け入れる感性もあるのではないか?」と書きましたが、だとしても、フィクションの部分には実在しない人物を登場させるなどの工夫が必要でしょうね。
実在の人物の思いを勝手に斟酌するのはよくない、と思います。
尾関さん
同感です。
現在進行形の出来事をルポの色彩の強い形で表現する時に、実在の人物に語っていないことを語らせるのはアウトではないかと感じます。
あとは私の狭量な感性のなせるわざだと思うのですが、どうも「ノンフィクション小説」と自分はしょうが合わないようです。
事実誤認があるのでは、と問われれば「小説ですから」、小説としての出来はイマイチだね、と言われれば「ノンフィクションに力点がありますから」という具合に「逃げ道」が用意されている感じがどうもシックリとこないんです、笑。