寅彦にもう1回、こだわってみる

今週の書物/
『銀座アルプス』
寺田寅彦著、角川文庫、2020年刊

野球

引きつづき、文人物理学者寺田寅彦(1878~1935)を話題にする。寅彦に対しては深い敬意を抱いているのだが、どうも好きになれない。それがなぜかはわからなかったのだが、随筆集『銀座アルプス』を読んでいて理由らしきものを発見した。寅彦はジャズが大嫌いだったのだ。よりにもよって、私がこよなく愛するジャズを――そんなことを前回は書いた。(当欄2020年7月31日付「寅彦のどこが好き、どこが嫌い?」)

これは、いちゃもんだ、と自分でも思う。人は若かったころの流行に共感しても、年をとってから出てきたものには抵抗感を覚えがちだ。私がヒップホップを敬遠するように、寅彦はジャズを「じゃかじゃか」(「備忘録」1927年)と揶揄したのだろう。

一つ、思考実験をしてみる。寅彦が70年ほど遅れて生まれ、団塊の世代だったなら、どんな青春を過ごしたかということだ。1960年代に東大理学部の学生だったとすると、お茶の水界隈のジャズ喫茶で首を振りふり、大好きなコーヒーを啜っていたような気がする。「マイルスはバラードがいいね」「ピアノは、やっぱりエヴァンスかな」などと、友人に蘊蓄を傾けていたのではないか。学生運動にのめり込んだかまでは推察しかねるが……。

私がそう思う根拠は、この随筆集のなかにある。「断片Ⅱ」(1927年)の冒頭、連句について述べた一節だ。連句、すなわち複数の作者が句をつないでいく詩作の妙がこう表現されている。「前句の世界へすっかり身を沈めてその底から何物かを握(つか)んで浮上ってくるとそこに自分自身の世界が開けている」。前句が月並みでも附句によって輝きを増し、「そこからまた次に来る世界の胚子(はいし)が生れる」――そんな連鎖があるというのだ。

これは、ジャズの醍醐味そのものではないか。ジャズでは、奏者が次々に「次に来る世界の胚子」を産み落とし、新しい世界を切りひらいていく。寅彦は、それを知ることがなかった。代わって、よく似たものを日本の韻文芸術に見いだしていたのである。

連句談議は、「映画時代」(1930年)にもある。ここでは、劇映画の「プロットにないよけいなものは塵(ちり)一筋も写さない」という制作姿勢が批判される。劇映画は舞台劇と違うのだから、「天然の偶然的なプロット」を取り込むべきだという。手本としてもちだされるのが連句。そこに見られる「天然と人事との複雑に入り乱れたシーンからシーンへの推移」は映画でこそ可視化できるのではないか。そんな提案をしているのだ。

寅彦のジャズ心は時間軸だけでなく、空間軸にも息づいている。表題作「銀座アルプス」(1933年)を見てみよう。ここで「アルプス」とは、銀座界隈に建ち並ぶ百貨店を指している。その山のてっぺん、すなわちデパートの屋上に立つと、眼下の街並みは建物の高さがばらばらだ。低層家屋のなかに中層のビルが交ざっているのだろう。「このちぐはぐな凹凸は『近代的感覚』があってパリの大通りのような単調な眠さがない」

「ちぐはぐな凹凸」に興趣を見いだしているのだ。これは寅彦が俳諧味を愛していたからだろうが、と同時に、ジャズ的なるものに対する感受性があるからのようにも私は思う。さらに驚かされるのは、そのちぐはぐさを「近代的」と形容していることだ。建築で近代主義(モダニズム)と言えば、箱形の建物が思い浮かぶ。だから、近代都市の景観はすっきりしている。ところが、寅彦は凹凸に近代を見ているのだ。ポストモダンに先回りしたのか。

こうした感性は、物理学者としての世界観とも響きあっている。それは当欄前回で言及した古典物理学――金米糖や線香花火――だけの話ではない。「野球時代」(1929年)という一編には、誕生したばかりの量子力学について述べたくだりがある。

「不確定」は、かつて「主観」の専売特許だったが、それを新しい物理学は「客観的実在の世界へ転籍させた」というのだ。ウェルナー・ハイゼンベルクが唱えた不確定性原理のことだろう。寅彦は、どんなに精密な測定をしても「過去と未来には末拡がりに朦朧(もうろう)たる不明の笹縁(ささべり)がつきまとってくる」と書く。だから、「確定と偶然との相争うヒットの遊戯」――即ち野球に人は魅せられるのだろうと考える。

こう見てくると、私は戸惑うばかりだ。寅彦が物理学者として志向するものも、文学者として好むものも私の心に響いてくる。それなのに、なぜ好きと素直に言えないのか。その答えのヒントになりそうなのが「雑記」の一節「ノーベル・プライズ」(1923年)だ。

この短文は、夜に電話が鳴り、新聞社が相次いでノーベル賞の発表について聞いてきた、という体験談から始まる。新聞記者は昔から同じようなことをしていたわけだ。前年1922年の物理学賞は前年分と併せて二人に贈られた。21年がアルバート・アインシュタイン、22年がニールス・ボーア、相対論と量子論の両巨頭が受賞者になった。もっとも前者への授賞は、相対論と関係なく、光電効果の理論研究に対してではあったのだが。

アインシュタインの知名度はすでに高かったので、記者たちが知りたがったのはもっぱらボーアだった。物理通ならだれでも知っている巨人が世間では知られていない。「それほどに科学者の世界は世間を離れている」とあきれた後、ボーアの私生活を描いていく。

ネタ元は、欧州でボーアに会ってきたばかりの友人。その帰朝報告によると、ボーアは郊外の別荘にしばしば出かけて、考えごとや書きものをしているという。「どうかすると芝生の上に寝転がって他所目(よそめ)にはぼんやり雲を眺めている」のだとか。

ここで寅彦は、科学者を応用志向型と純理探究型に分けてボーアを後者に分類する。世の人々がそういう学者を大事に思うなら「はたから構わない」ほうがよい、と主張する。芝生でそっとしておきましょう、というわけだ。寅彦自身は、防災に一家言あるので前者の一面があるが、金米糖や線香花火に惹かれるところは後者だ。「ボーアの内面生活を想像して羨ましくまたゆかしく思っていた」とも打ち明けているから、後者の側面が強いのだろう。

実際、寅彦も「郊外の田舎」に「隠れ家を作った」(本書所収「路傍の草」1925年)。クラシック音楽を愛するように田園を求めたのだ。そこには、日本の知識人社会にあった世俗ばなれ志向が見てとれる。世間を高踏的に見渡している感じか。科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう。私はたぶん、そこに引っかかったのだ。それは、科学の解説書を〈啓蒙〉書と呼ぶことに対する違和感に通じている。

もう一つ、ちょっと残念なのは、「天然の偶然的なプロット」や「ちぐはぐな凹凸」を愛した人が自身の生活には破調を求めなかったことだ。植草甚一のように気まぐれな寺田寅彦がいてもよかったのだ(当欄2020年4月24日付「J・Jに倣って気まぐれに書く」)。
(執筆撮影・尾関章)
=2020年8月7日公開、同月9日最終更新、通算534回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

5 Replies to “寅彦にもう1回、こだわってみる”

  1. 尾関さん

    確かに、イチャモンだ、と私も思う。直感的違和感に論理の後付けをしているようにも見える(笑)、見事なロジックですが。
    但し、尾関さんはご自分と寅彦とのズレを語っているのであって、その見方を誰かに強制しているわけでもないので、何ら問題はない。

    ただ、実は私もどうも昔から寅彦は駄目。何故だろうと考えることを尾関さんから強いられた。簡単に結論は出ないのですが、どうも、寅彦に限らず、小中高の教科書で知った人物に抵抗感があるような気がしないでもない。

    教科書に載っているということ自体が、既にそれ以上の人物ではない、と感じるのか?無論、子供の頃にこのような言葉で考えたわけではないのですが、既存の価値体系に収まってしまっている人々、大人公認の人々と感じたのか?

    それゆえに、どうも子供の頃からその傾向が私の中にあった在野精神が、教科書に載っている人々に抵抗感を感じさせたのか?
    『教えられた人と自分で見つけた人』がひとつのテーマになりそうです。

    ともあれ、寅彦をめぐる2回のブログはとても読み応えがありました。寅彦についての知らなかったことを学べることが出来ましたし、尾関さん研究としても貴重なテキストとなりました。

  2. 虫さん
    《『教えられた人と自分で見つけた人』がひとつのテーマ》
    なるほど、それはあるかもしれませんね。
    私は今回、寅彦敬遠の理由がわからないまま拙稿を書きはじめました。
    2回を費やして、たどり着いたのが「科学者が高踏の匂いを漂わせるとき、その言葉は〈啓蒙〉の響きを帯びてしまう」ということ。
    不思議なもので、高踏的なのが文学者漱石なら気にならないのに科学者寅彦だと気になる。
    これは受けとめる私の側の問題なのか、科学そのものの特性に由来するのか?
    もうちょっと考えてみたいと思います。

  3. 寺田寅彦を「どうも好きになれない」という尾関さんの気持ち、ジャズが嫌いな人を好きになってたまるかという気もち、なんとなくですが、でもよくわかります。私も寺田寅彦は好きではない。寺田寅彦から臭ってくる明治時代の臭いが嫌なのです。寺田寅彦と同じ1878年生まれの人々のなかに、例えば吉田茂、スターリン、有島武郎といった人々のなかに、好きな人はひとりもいません。みんな下品で、上品な尾関さんが好きになるような人はひとりもいないと思います。青空文庫のおかげで、寺田寅彦や有島武郎だけでなく、明治時代の人たちが書いた文章を目にすることができますが、大抵イライラして読むのを止めてしまいます。1868年から1945年までの日本は、ちょうど今の北朝鮮やベラルーシのように、歴史の中で異質のものなのか、それとも私たちのいるところが異質なのか、どうなのでしょう。
    で、ジャズですが、寺田寅彦の場合、ジャズが好きかどうかという以前の問題で、「同じジャズの楽器でもドイツ人の手にかかると、こうも美しくなるものかと感心させられる」とか「アメリカのジャズはなるほどおもしろいと思う時はあっても、自分にはどうも妙な臭みが感ぜられる。たとえば場末の洋食屋で食わされるキャベツ巻きのようにプンとするものを感じる」とか「ジャズの一つも現われないトーキーを作ってみたいものである」とか「始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。・・・これはじゃかじゃかのジャズ音楽である。」とか書く人を好きになるようでは、人間終わりです。寺田寅彦なんて読むのは止めましょう。時間の無駄です。
    それにしても寺田寅彦のジャズ嫌いはすごいですね。度を越えています。憎んでいます。ジャズが好きな女性にふられたとか、ジャズの演奏グループに入れてもらえなかったとか、なにかあったのですかね?

  4. 38さん
    そうか、寅彦はそこまでジャズが嫌いだったのか。
    教えてくださり、感謝です。
    そうなると、音楽趣味での「いちゃもん」も、あながち的はずれではなかったような気がしてきました。
    《寺田寅彦から臭ってくる明治時代の臭いが嫌なのです》
    きっと、この感じ方がポイントを突いているような気がします。
    欧州文明を崇めるあまり、それ以外を見下してしまう。
    そのなかに米国のジャズも含まれていた、ということでしょうか。

  5. 38さん

    貴重な情報をありがとうございました。
    寅彦のジャズ嫌いには何やら常軌を逸した感がありますね。
     
    今の日本でも、さまざまな分野で欧州派と米国派が頼まれもしないのに代理戦争を繰り広げていますが、寅彦は筋金入りの欧州(ドイツ)派だったのですね。

    それにしても、場末の洋食屋、それもロールキャベツをくさすあたりはいただけないですね。確かに洋食の歴史が浅かった当時は、正統派の店と亜流の店との差が大きかったかも知れませんが、美味しい場末のロールキャベツもきっとありましたでしょう。銀座の煉瓦亭あたりで、ナイフとフォークの使い方を間違えまいとしている寅彦が目に浮かびます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です