苦海の物語を都市小説として読む

今週の書物/
『苦海浄土――わが水俣病』
石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊

アセトアルデヒド

今週も『苦海浄土――わが水俣病』(石牟礼道子著、講談社文庫、2004年新装版、単行本は1969年刊)の話を。(当欄2021年10月22日付「苦海浄土を先入観なしに読む」)

この作品は、1970年に第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれた。本人が辞退したことで受賞作とはならなかったが、選ばれたことに相違はない。私は読まず嫌いで敬遠してきたのだが、精読すると、さすがノンフィクションらしいなと感じる一面と、これもノンフィクションなのかという一面が混在していた。そこには、新聞記者流のノンフィクション観には収まり切らない文章表現がある。そんなことを先週は書いた。

実際、私が数十ページを読んだだけで感じとったのは、この作品には小説の顔があるな、ということだった。アルベール・カミュの小説『ペスト』にどこか似ている感じがした。共通するのは、病が面的にはびこること。片方は感染症で、もう一方は公害病だが、ともに地域社会をまるごと揺るがす。都市そのものが有機的であり、作品の影の主人公といった趣がある。(当欄2020年5月8日付「ペスト』考、拙稿再読で知る怖さ」)

『苦海…』でそれが最初に見えてくるのは、冒頭の章で水俣市役所衛生課の仕事ぶりが描かれるくだりだ。衛生課は1960年代半ば、水俣病患者の検診があるときにその送迎用バスを走らせていた。バスが患者のいる集落にやって来て合図のクラクションが聞こえると、人々が路地から現れ、海辺の道やたんぼ沿いの道に集まってくる。そこには「首がすわらない胎児性水俣病の子どもたち」がいる。「おぼつかない足つきの成人患者たち」もいる。

著者は、バスの車内風景も「私」を主語に描きだす。患者や患者家族たちの「不安げな様子」が車中では弱まるというのだ。発語の難しい子は、バスに乗っていることがうれしいようで「かすかな声」を発している。大人たちも子を見守りながら心を和ませて「おしゃべり」している。著者は、この小さな幸福に疎外感の裏返しを見てとる。「故郷の景色の中に、いつもすっぽりと入りきれないで暮らしてきたこと」の証しだというのだ。

もう一人、焦点が当てられるのは、そのバスの運転手だ。子どもたちに「よう」「やあ」と声をかけ、発車時には「そうら、行くぞ」のひと声がある。体の不自由な子が乗ってきたときは、微笑を浮かべて着席の世話をする。好感のもてる青年だ。ところが運転中は「どこかおこってさえ見える顔つき」になる。「自分でもわからないままに、蓄積されてゆくいきどおりをためこんでいて、始末に困っているよう」――「私」の目にはそう映る。

この青年の「いきどおり」に、同郷人に対する「本能的な連帯心のようなもの」があることを著者は見抜く。それは、水俣市民が水俣病に対して示す反応の一つであり、「この土地をめぐっている地下水のような、尽きぬやさしさ」にほかならないというのである。

ここで著者は、青年の個人史にも立ち入っている。彼は水俣病が現れたころ、地元でタクシーの運転手だった。当時、市外や県外の乗客がどっとふえた。記者もいる。役人もいる。学者もいる。行き先は新日窒の工場、市立病院、市役所、そして宿泊先の温泉……。熊本大学の研究陣を水俣病の多発地域まで乗せていくこともあった。だから「彼なりの判断を水俣病全体に持っている」ようなのだが、そのことを自分から話そうとはしない。

私が『苦海…』に文学性を感じるのは、著者がこのように脇役に過ぎない一人の青年に目をやり、その寡黙ぶりから水俣の人々の深層心理に思いをめぐらせていることだ。この多角的な視点こそが、カミュ『ペスト』に通じる都市小説らしさを醸しだしているのである。

「水俣とはいかなる所か」と切りだされるくだりでは、地域史にも言い及んでいる。不知火海の向こうには、天草や島原がある。だから古来、「中央文化のお下(さ)がり」よりはむしろ、「大陸南方および南蛮文化」の影響下にあった。幕藩体制のもとでは、肥後の地にありながらも隣の薩摩との間で農民や商人の行き来があり、「商いを交わし婚姻を結び、信教の自由をとり交した形跡」も残っている。開かれた土地柄だったのだ。

主要産品には塩があった。ところが、1905(明治38)年に塩の専売制が始まって製塩業は大打撃を受ける。そこに工場を進出させたのが、新興の日本窒素肥料だ。1908(明治41)年のことだ。やがて水俣村(後の水俣市)民の心には「日本化学産業界の異色コンツェルン日窒を、抱き育ててきたのだという先進意識」が根づく。1961年には市の税収の約半分が「日窒関係」(当時の社名は「新日本窒素肥料」)で占められるまでになった。

そのころ、新日窒がアセトアルデヒドを生産する工程では水銀の触媒が使われ、それがメチル水銀となって八代海に排出されていた。メチル水銀は海洋生態系のなかで魚貝類の体内で濃縮される。それらが地産地消の生活を営んでいた人々に禍をもたらしたのである。

この歴史的背景は水俣の地域社会に亀裂をもたらした。「日窒関係」を生活の糧にする人々とそうでない人々、水俣病を背負う人々とそうでない人々の間には意識の乖離がある。「日窒関係」に依存しながら縁者に患者がいる、という立場もありうるので、そういう人たちは内なる葛藤を抱え込んだに違いない。著者は水俣で起こった一つの騒動を通じて、その軋轢を浮かびあがらせる。これで、作品はますます都市小説の色彩を強める。

1959年11月2日午前のことだ。水俣市立病院前は沸き立っていた。この日、水俣市には国会議員団が初の現地調査に訪れていて、水俣病患者家庭互助会の代表らが議員団に支援を陳情したのだ。そこには不知火海区の3漁協も、2000人とも4000人ともいわれる大集団で押しかけていた。漁師たちは昼食後、隊列を組んで新日窒水俣工場の正門前へ向かう。慣れないデモだった。この一部始終を、著者は現場で目撃したという。

著者は「定かならぬ物音」を聞きつけて正門のそばに近づく。漁師たちが工場になだれ込み、投石で窓ガラスを割って建物に入り、机や椅子、テレタイプのような事務機器を近くの排水溝へ投げ落としていた。建物脇に置かれた自転車も捨てられている。「こげん溝!/うっとめろ!」(/は改行、以下も)――この排水溝がメチル水銀を海に垂れ流していた水路かどうかははっきりしない。ただ、漁師が「溝」を狙い撃ちした心情はわかる。

この場面では、さらに強烈な描写もある。若い女性が、幼い子一人を背負い、もう一人を手でつなぎとめながら叫び声をあげている。「ああ、/とうちゃんの、ボーナスの減る。/ボーナスの減る!/やめてくれーい!」。声は、物品が壊されるたびに聞こえてくる。「彼女は日窒工員の妻にちがいない」(社名は原文のママ)と著者は直感する。昔ながらの村落社会が工業都市に変容し、そのことで人々が分断された現実が、この絶叫に凝縮している。

この出来事は、議員団の一人によって10日後、衆議院農林水産委員会で報告された。その議事資料も、この作品には織り込まれている。報告者は「関係漁民数千人」から「切実な陳情を受けた」としたうえで、こう語っている。「その後これら関係漁民の一部が工場に押入り事務所を損傷する等暴挙に出たことは遺憾に存ずる次第であります」――騒動が遺憾なのはわかるが、それより先に遺憾の意を表すべきことがあっただろうに、と思う。

バス運転手の内なる怒り、工員家族の素朴な嘆き。この作品からは、近代日本の工業化が地産地消の社会をどう崩壊させ、人間の次元でどんなひずみを生んだかが見えてくる。
*当欄の前身「本読み by chance」に関連記事が二つあります。
原田水俣学で知る科学者本来の姿」(2016年5月20日付)
石牟礼文学が射た近代という病」(2018年3月2日付)
(執筆撮影・尾関章)
=2021年10月29日公開、通算598回
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