外岡秀俊、その自転車の視点

今週の書物/
『3・11 複合被災』
外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊

自転車

3・11がまた、めぐって来る。東日本大震災から11年、被災地にいればあの日は現在と地続きだろう。だが、数百キロ離れた首都圏にいる私には昔の出来事のように思えてしまう。手垢のついた言い方だが、風化はすでに始まっているのかもしれない。

で、今回は『3・11 複合被災』(外岡秀俊著、岩波新書、2012年刊)を先月に続いてもう一度読む。著者は巻頭や巻末で、震災10年後の中高生たちが「3・11とは何だったのか」という問いに直面したとき、この本を手にとってもらえたらいい、という希望を打ち明けている。私も、そう思う。前回「外岡秀俊の物静かなメディア批判」(当欄2022年2月4日付)では原発事故の被災地に焦点を絞ったので、今回は津波被害に目を転じてみよう。

前回とのダブリになるが、著者の横顔を改めて素描しておこう。著者は、朝日新聞記者だった人で編集局長を務めたこともある。去年暮れ、突然の病で死去した。2011年3月、介護を理由に新聞社を退職したが、その直前に東日本大震災に遭遇する。凄いのは、退職間際に被災地を取材して現地報告の記事を書いたことだ。もっと凄いのは、退職後ただちに被災地に戻って取材を続けたことだ。この本には、その一連の取材成果が凝縮されている。

著者が被災地の現実を最初に肉眼でとらえたのは、震災1週間後2011年3月18日のことだ。社有機の小型ジェットで現地上空を飛んだ。まずは「被災の全体像」を「鳥の目で俯瞰」したい。そんな思いからだった。眼下では仙台空港が津波に洗われ、飛行機やコンテナが散らばっていた。多賀城、東松島、石巻と北上すると、船が陸地に横たわっていた。川は橋を失い、橋脚だけが残っていた。家々は流され、ひしゃげ、重なりあっていた。

陸前高田上空まで来て、「血の気がひいた」と著者は書く。「景色が一変した。何もない。孤立したコンクリート造りの建物以外、ただ泥土と水」。その先の大船渡や釜石も同様だ。津波は防波堤をなんなく越え、「何もない」世界をそこここに生みだしていた。

この光景は、1995年の阪神大震災と比較されている。著者があのときに見たものは、強い揺れの被害が幅約1キロ、長さ約20キロの一帯に集中する「震災の帯」だった。ところが今回は、大津波が総延長500キロに及ぶ沿岸平野部を総なめにしている!

被災地を俯瞰した翌日、著者はその「何もない」世界の土を踏んだ。立ち寄ったのは、岩手県南部の藤沢町(現・一関市)にある町民病院だ。そこには、被災地支援のために全国から集まった医師たちの前線基地があった。離島の診療所から応援に来た医師は開口一番、こう言う。「情報がない、足がない」。地元医師に連絡をとろうとしても携帯電話が通じない。動き回ろうにもガソリン切れで使えない車ばかり。そんな現実があった。

著者は、その医師から衝撃的な話を聞く。津波被災地では救急優先度(トリアージ)の判定が「救急不能」と「救急不要」に二分され、途中がほとんどないというのだ。阪神大震災は家屋の倒壊が多発したので「負傷者が多かった」。ところが今回は、津波中心の災害となったので「中間の救急医療の必要もないほど、『生と死』の領域がはっきりと切断されている」――。救急の出番を許さないほどの自然現象が「何もない」世界を出現させたのだ。

では、支援の医師たちは何をしようとしたか。力を注いだのは、地元の医師たちの負担を軽減することだった。被災地では医師もまた被災者だった。だが、休診している場合ではない。住民の避難所に張りついて診療に当たることを求められた。そこで支援組が始めたのが、同業者にひとときの休息を与えるために代診を買って出ることだ。連絡をとりあうため、電話会社から利用可能な携帯電話の提供を受け、地元の医師たちに届けた。

著者は、この代診に同行している。出向いた先は気仙沼。支援の医師の仕事は「生と死」の二分をそのまま反映していた。夜は避難所で当直医を務め、生きている人々を診たが、昼は検視のために遺体安置所に赴いて、死んだ人々と向きあったのである。

安置所の遺体の約半数は、ポケットに財布を入れていた。犠牲者は津波から逃げるとき、家から持ちだしたいものがたくさんあったに違いない。だが、それらをあきらめて財布だけをポケットに突っ込んだのだ。著者はそこに「身一つ」の切迫感を見てとっている。

このことは、避難所で出会った地元漁協幹部(53)の体験談でも裏打ちされる。大津波の警報があったとき、本人は漁協にいて人々の避難を誘導していたが、そのころ、自宅も娘の家も父の家もみな流された。父は行方不明となり、残る家族も「身一つ」で助かって「財布以外はすべて失った」のである。著者はここでも、阪神大震災との違いを指摘している。阪神では、たとえ家屋が全壊してもそこから「家財道具を取り出せた」という。

著書は、大津波の猛威が街の風景をどれほど歪めたかも活写している。場所は、気仙沼の高台。標高は平地から20m余も高い。それなのに津波は、斜面を一気に乗りあげてきた。「電線や木の梢に、浮きのガラス玉や海草がぶら下がっていた」「大型スーパーの屋根には、海の怪物が運んだかのように、黄色い乗用車が載っていた」――地上の秩序がすっかり失われたのだ。あたかも超現実主義の絵画を見ているようではないか。

その街角で、著者は杖をついた女性(77)に出会う。彼女は震災の日、ここから数キロ離れた高地にいて、津波の襲来を間近に見た。まずは「黄色い水」が迫ってきた。次いで「青い水」が追いかけてきた。そして「大きな家や施設があったのを、静々と持っていった」という。「静々と」――その様子が不気味ではないか。彼女は「大東亜戦争の時よりひどい」「地獄に行ったことないけど、地獄よりひどい」と語っている。

こうみてくると、著者の目は津波災害の本質を鋭く見抜いていたことがわかる。それは私たちの日常を突然「何もない」世界に変える。そこでは、「生」と「死」がくっきりと分かれる。幸運なことに「生」の側に居残っても「無一物」にされてしまう。

著者は、このとき3月19日から約1週間、被災地に滞在した。私が驚くのは、東京本社に戻ったのが3月25日ごろということだ。3月末の退社日は目前だ。ふつうなら荷物の整理などで慌ただしいだろうが、彼は新聞記者としての仕事を最後まで続けたのだ。

いや、これで驚いてはいけない。著者は退社後、故郷の札幌に住むが、4月下旬に再び被災地を訪れているのだ。記者時代のようにニュースは書けない、その代わり「時間だけは、たっぷりある」。だから、「人々の遅々として進まない日々の思い」を感じとって「一緒に泣き、一緒に笑うこと」なら可能かもしれない。そう考えたという。実際にこの本でも、退社後の現地報告はそれまでとは趣が異なり、柔和な筆致になっている。

たとえば、盛岡駅からバスで宮古へ向かうときの車窓風景。遠くの早池峰山は残雪に包まれている。川の土手にはフキノトウの群落が広がっている。「こぼれ落ちるような連翹(れんぎょう)の黄色、紅白の梅の花。閉伊川沿いの眺めは、これまでモノトーンだった被災地に、ようやく明るい彩りが混じってきたかのような錯覚を与えた」――季節感が匂い立つような描写だが、その明るさが「錯覚」に過ぎないと言い添えることを忘れていない。

私が微笑ましいと思ったのは、バスを宮古駅前で降りて、取材の足を探す場面だ。新聞記者時代なら貸し切りのタクシーを使うという手もあろうが、個人の立場では難しい。著者は観光案内所で、レンタサイクルはどこで借りられるか、と聞く。窓口の女性が電話で探してくれて「駅前派出所なら」と答えた。派出所は、連絡先を書きおいただけで自転車を貸してくれたという。「黄色い」とあるから警邏用ではなかったらしい。念のため。

著者は宮古では、自治体が未曽有の災害とどう闘ったかについて取材した。この本では、役所の人々が実名を出して自身の3・11体験を語っている。市の広報担当者(50)は震災当日、高校生でヨット部員の娘の安否がわからず気を揉んだ。市教委事務局の職員(47)は、沿岸部の勤め先にいた妻と2日間連絡がとれなかった。そんな事情を抱えながら、公務員として市民の救援に当たったのだ。ここで著者は人間の顔が見える取材に徹している。

著者外岡秀俊は震災被災地の取材を小型ジェットで始め、それを自転車につないだ。これは、視線のギアチェンジでもあった。人間は「何もない」世界にいったん押しやられても、態勢を整えて生き延びる。自転車を漕ぎながら、そのことをしかと見てとったのだ。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年3月4日公開、同日更新、通算616回
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