ノーベル賞作家、事実と虚構の間で

今週の書物/
「嫉妬」(アニー・エルノー著、堀茂樹訳)
=『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫、2022年10月刊所収

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ブログを続けていると、過去の稿を読み返して一つのテーマが浮びあがってくることがある。当欄には「実存主義」や「量子力学」のように意図して設定しているテーマもあるが、それではない。こんな問題意識が自分にはあったのか、と後から気づくものだ。

この1年で言えば、フィクションとノンフィクションの違いがこれに当たる。

国木田独歩の「武蔵野」(新潮文庫『武蔵野』所収)は「小説」に分類されているが、読んでみるとエッセイ風の都市論だった。都市のアメニティ、すなわち景観の心地良さを考えるとき、参照したい話にあふれている。独歩は詩人・小説家とされているが、新聞記者の職歴もある。この作品は、その核心に事実があり、小説というよりもノンフィクションの色彩が強かった。(当欄2022年9月16日付「アメニティの本質を独歩に聴く」)

外岡秀俊も、フィクションとノンフィクションの間を行き来する。学生作家として世に出た後、朝日新聞社に入って記者を34年間続けた人だ。昨年暮れに急逝した。私は新聞社の同期なので思い入れがあり、今年は当欄で彼の著作を6回とりあげた。うち2回は入社前の小説『北帰行』(外岡秀俊著、河出文庫)だった(2022年10月28日付「北行きの飛行機で『北帰行』を読む」、2022年11月4日付「抒情派が社会派になるとき)。

『北帰行』で私が感じたのは、人間外岡秀俊のなかでは作家の問題意識が新聞記者の仕事に転写されたらしい、ということだ。彼の問題意識は小説というフィクションを通じて涵養されたものだった。それが新聞記事というノンフィクションで実を結んだのである。

フィクションとは何だろう? ノンフィクションとは何か? これは、私のように文章を書くことを生業とし、今や趣味にもしている者にとってはぜひ考えておきたいテーマだ。とくに新聞記者は、事実に即することに厳格であろうとするあまり、虚構の水域に近づくことを嫌う傾向がある。ノンフィクションが当然という世界を生きてきた結果、フィクションの値打ちを低くみていたようにも思う。そろそろ、この偏見を脱してもよい。

で、今週の話題はオートフィクション。「自伝的なフィクション」と訳される。今年のノーベル文学賞発表でにわかに注目されるようになった。受賞者に決まったフランスの作家アニー・エルノーさんの作品群が、この範疇に入るからだ。自伝はノンフィクションのはずだが、オートフィクションはあくまでもフィクションを名乗っている。ならば、ただフィクションとだけ言えばよいのではないか。なぜ、「自伝的」と形容するのか?

で、今週の書物は、彼女の作品「嫉妬」(堀茂樹訳)。『嫉妬/事件』(アニー・エルノー著、堀茂樹、菊地よしみ訳、ハヤカワepi文庫)に収められている。この本は今年10月25日刊。著者の受賞が決まってすぐ私は通販サイトで予約注文できたから、早川書房はタイミングよく出版を企画していたわけだ。著者は1940年生まれ。本作「嫉妬」は2001年にル・モンド紙の付録として発表された後、それに手を入れたものが翌年刊行された。

「訳者あとがき」(堀茂樹執筆)は、本作が小説、フィクション、ノンフィクションのいずれでもない、と断じている。正解は「著者自身が引き受ける一人称の『私』の名において記述された自伝的『文章』『テクスト』」だ。作中の「私」は著者が「引き受ける」存在であって著者そのものではない、だから虚構も混在する――ということか。私は記者出身だから、それならばフィクションだろうと思ってしまうが、そうも割り切れないらしい。

作品に入ろう。主人公の「私」は18年間の結婚生活に終止符を打った後、Wという若い男性と6年間つきあったが、彼とも別れることにした。離婚で手にした自由を失いたくなかったのだ。自分から別れを言いだしたのに嫉妬が芽生えたのは、Wの電話がきっかけだった。自宅を引き払い、別の女性と暮らす、という。「その瞬間、そのもうひとりの女性の存在が私の中に侵入した」「その女性が私の頭を、胸部を、腹部を埋め尽くしていた」

本作の原題は“L’Occupation”。Occupationは英語と同じ綴りだから、「占領」「占有」であることにすぐ気づく。嫉妬する人間は嫉妬される人物によって占拠される、ということだ。作中の「私」は全編を通じて、その心模様を包み隠すことなく打ち明けている。

告白は具体的だ。「私」は「もうひとりの女性」の「姓名を、年齢を、職業を、住所を知る」という欲求に駆られる。Wとは別れたあとも音信が途絶えたわけではなかったので、彼からそれらのデータを聞きだす。47歳、教師、離婚歴あり、16歳の娘がいてパリ7区ラップ大通り在住――まずは、ここまでわかった。そのとたん、スーツ姿で髪を小ぎれいにブローした女性が「中産階級風のアパルトマン」で講義の下調べをしている姿が思い浮かぶ。

データは独り歩きを始める。たとえば、47歳という年齢。「私」は女性たちに「老いのしるし」を見つけ、自分のそれと比べて年齢を推し量るようになる。40~50歳で「上品なシンプルさ」を漂わせる女性は、「もうひとりの女性」の「写し」のように見えた。

あるいは、教師という職業。「私」は自分にも教師経験があるのに、女性教師という種族が嫌いになってしまう。地下鉄の車両に乗り合わせた40代の女性が教師風の鞄を携えていたとしよう。それだけで「私」には、彼女が「もうひとりの女性」に思えてくるのだ。その女性がどこかの駅で座席を立ち、電車を降りるときの決然とした動作は、車内に残された私にとって「私というものをまるごと完全に無視し去る」行為のように感じられた。

「私」は嫉妬を分析して、その「最も常軌を逸している」点は「ひとつの街に、世界に、ある人…(中略)…の存在ばかりを見てしまうこと」にあると看破する。ここで(中略)の箇所には、「ある人」が面識のない人物のこともあるとの注釈が書き込まれている。嫉妬は、嫉妬される人が嫉妬する人の心を占めるだけではない、嫉妬する人の目に映る世界までそっくり占拠してしまう――少なくとも作中の「私」は、そんな状況にあった。

著者の作品を特徴づけるのは、赤裸々な描写だ。一例は、冒頭の一節にある話。「私」はWと愛しあっていたころ、朝方目が覚めるとすぐ「睡眠の効果で勃起した彼のペニスをつかみ」「そのままじっとしている」のが常だった。今は別の女性がWの傍らにいて、同じことをしているのか。頭から離れないのは、その手のイメージだ。それが、まるで自分自身の手のように思えてくる。嫉妬は皮膚感覚と結びついて、妄想を次々に生みだしていく。

ただ、私たちが読んでいて怖くなる赤裸々さは、この種の話にあるのではない。それは、嫉妬が妄想という心理作用の域にとどまらず、行動となって発現することだ。とても誉められない行為まで、作中の「私」はためらうことなく微に入り細を穿って語っていく。

「私」は、Wが明かそうとしない「もうひとりの女性」の名をとことん突きとめようとする。Wを問いつめ、彼女がパリ第三大学で歴史学の准教授であることまで白状させると、こんどはインターネットと格闘する。教員一覧のページを見つけ、氏名と電話番号が記載されているのを目にした瞬間、「俄(にわか)には信じ難い、常軌を逸した幸福感」に「私」は浸る。ただそれでもなお、標的を一人に絞り込むことができなかった。

そこで「私」は、Wから「もうひとりの女性」の論文テーマを聞きだす。検索エンジンを駆使してそれらしい人物にたどり着くが、住所がパリ7区ではない……。そんな悪戦苦闘の末に結局、彼女とWが住むアパルトマンの各戸に電話をかける挙に出る。これも、電話番号を公表している住人に限られるわけだが……。番号に「非通知コード3651」(日本ならば184、186か)をつけて、女性が出たら「Wさん」の名を出して反応を窺う――。

結果は、ここには書かない。ただ「私」が危険水域に入り込んでいることは確かだ。「私」自身、そこには「不法性へのどきどきするような飛躍」があったことを認めている。

「私」は、「もうひとりの女性」のアパルトマンまで特定していた。ならば「私」自身が言及しているように、そこに乗り込むという手段もあったはずだ。そうしなかったのは、「愛されていない女としての私の孤独」と「愛されていたいという私の願望」をWと彼女に見せたくなかったからだ。ではなぜ今、「私」は自分の嫉妬のすべてを作品化して白日の下にさらけ出そうとしているのか? その理由も「私」は書いている。

読者が本作に見るものは「私の欲望」や「私の嫉妬」ではない。「誰のものでもない具体的な欲望」「誰のものでもない具体的な嫉妬」だというのである。(太字箇所には傍点)

作家が「誰のものでもない」普遍の事象を描こうとするとき、それはフィクションで十分だ。だが「欲望」や「嫉妬」のような内面の普遍事象を「具体的」に表現するには「私」が必要になる。オートフィクションとは、そのために用意された手法なのだろう。
(執筆撮影・尾関章)
=2022年11月25日公開、通算654回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
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