3・11大津波、科学者の憤怒

第一幕

今週の書物/
『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』
島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊

コロナ禍は終わったのか。世間は終わったかのような空気になっているが、どうもすっきりしない。科学者が理詰めで見極めているとは思えないからだ。政治家や官僚やメディアが、それぞれの都合でコロナの収束を触れまわっているだけではないのか。

コロナ禍勃発後の3年は、科学と政治がかつてなく密接にかかわった時代として記憶されるだろう。日本では、政府に有識者グループが置かれ、そのトップに医師が就いた。ただ、科学と政府の関係が蜜月だったわけではない。政治家には経済を回す使命があり、経済界を支持基盤にしているという内情もある。だから、医師や医学者の助言を煙たがることもあった。それが、いま目の当たりにしている政治主導の脱コロナにつながったように思う。

いずれにしても、コロナ期の科学・政治関係は入念に検証されなくてはならない。そのためにはまず、会議議事録の類をすべて保存すべきだ。昨今は当事者同士がメールで連絡をとりあうのがふつうだから、交信記録も公的な性格が強いものは可能な限り収集したほうがよい。検証は、責任の所在を明らかにするだけではない。これからの時代、科学と政治がどうかかわりあうべきか、それを探るときにヒントを与えてくれるに違いない。

そんなことを考えていたら、尊敬する先輩から1通のメールをもらった。泊次郎さん――新聞記者として地震や原子力問題を担当、退社後に博士号を取得した人だ。著書『プレートテクトニクスの拒絶と受容――戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会、2008年刊)は、戦後日本の地震研究に対する政治運動の影響をあぶり出した。科学への批判的視点を忘れない科学ジャーナリストである。その人がメールでこの本を薦めている――。

『3.11大津波の対策を邪魔した男たち』(島崎邦彦著、青志社、2023年3月刊)。著者は、東京大学名誉教授の地震学者。東京電力福島第一原発の事故後、新設された原子力規制委員会の委員長代理として筋を通そうとしたことで有名だが、かつてお目にかかったときに受けた印象では穏やかな方だ。気骨があるが温厚な科学者。その人が、過激な書名を掲げて憤っている。よほどのことがあったらしい。これは読まないわけにはいかない。

本書が焦点を当てるのは、2002年夏に政府の地震調査研究推進本部(地震本部)が発表した「三陸沖から房総沖にかけての地震活動の長期評価」だ。「長期評価」では、大地震の起こりやすさを長い目で「予測」する。このときは、今後30年間に日本海溝沿いで大津波を伴う津波地震が起こる確率を20%とはじき出した。本書によれば、これに対して政府部内から反発が起こり、政治的圧力で発表文が歪められたという。

なお、ここで「津波地震」という用語は、津波を起こす地震のすべてを意味してはいない。揺れが小さいのに大きな津波を起こす地震を指して、こう呼ぶらしい。

そのころ著者は、地震本部地震調査委員会長期評価部会の部会長だった。だから、この圧力をもろに受けた人ということになる。そのいきさつを追ってみよう。

この「長期評価」が発表されたのは、2002年7月31日。その5日前、1通のメールが著者に届く。文部科学省の地震本部事務局からだった。内閣府防災担当が「長期評価」前書き部分の変更案を送ってきたので「発表内容を変える」というのだ。変更案では、“なお書き”が追加されていた。今回の予測は「過去地震に関する資料が十分にないこと等による限界がある」ので、「利用」に際しては「この点に十分留意する必要がある」としていた。

今、地震本部の公式サイトにはこの「長期評価」が収録されており、その“なお書き”も読むことができる。地震本部は結局、内閣府の変更案を受け入れたということだ。

変更案が送られたメールにはもう一つ、重要な文書を添付されていた。内閣府防災担当が、「長期評価」をどう見ているかを箇条書きにまとめたものだ。そこでは、今回の予測が「実際に地震が発生していない領域でも地震が発生するものとして評価している」と述べ、「この領域については同様の発生があるか否かを保証できるものではない」とことわっている。内閣府が「長期評価」に横やりを入れたと言っても言い過ぎではあるまい。

理由は、この文書の次の段落を読むとはっきりする。防災対策の費用に言及し、「確固としていないもの」に対して「多大な投資をすべきか否か」には「慎重な議論が不可欠」と主張しているのだ。内閣府防災担当は、首相を会長とする中央防災会議の事務局であり、中央防災会議は気象災害から地震・火山災害まで防災の基本計画を決める。政策遂行の元締めとして、コストパフォーマンスを無視できないということだろうか。

だが、話はそう簡単ではない。それは、ここで問題視された「実際に地震が発生していない領域」――“なお書き”の表現を用いれば「過去地震に関する資料が十分にない」領域――がどこかにかかわってくる。過去400年間の資料をもとに津波地震が起こった場所を拾いあげていくと、発生記録がないのは福島県沖だという。ならば、防災対策で「多大な投資」に「慎重」であるべき場所は主に福島県沿岸と言っているようにも思える。

もしこのとき、内閣府が過去地震の資料不足を理由に「多大な投資」に対する慎重論を表明していなければ、福島第一原発の津波対策も増強されていたかもしれない。

話を整理しよう。地震本部の「長期評価」は、三陸沖から房総沖にかけて日本海溝沿いのどこでも津波地震が起こりうると主張したが、内閣府は「どこでも」に難色を示した。では「長期評価」が「どこでも」と言う根拠は何か。それは、私も気になることだ。

本書には、その説明がある。著者によると、大地震の予測方法には2種類ある。一つは、発生の「間隔」から予測する方法。ただ大昔は記録が乏しいので、間隔の長い地震には通用しない。もう一つは「同じような大地震が起きる地域を広い範囲で捉えて、そこを基準にして考える」方法。ここで「同じような大地震が起きる地域」は「地震地体構造が同じ地域」と言い換えてよい。2002年、地震本部は後者を選択、内閣府は前者にこだわった。

「地震地体構造が同じ地域」は、今はプレートテクトニクス理論で推定できる。プレート論では、地球を覆う岩板(プレート)の動きで地震活動を説明する。津波地震は「プレートが沈み込む場所の近くで」「どこでも」起こる。リスクのある領域は広いというのだ。

プレート論は1960年代末に広まった。だが、前述の泊さんの本にあるように、日本の学界では左派系の政治運動が影響して、導入が遅れた。その余波が内閣府に及ぶはずもないが、「長期評価」批判はプレート論研究の出遅れを引きずっているのかもしれない。

実際のところ、内閣府が地震の「間隔」にこだわり、「過去地震」がない領域のリスクを低く見たことにはネタ元があるらしい。土木学会の原子力土木委員会津波評価部会が2002年2月に出した『原子力発電所の津波評価技術』だ。福島県沖では津波地震の記録が過去400年間にない、としたのはこの文献だった。この評価は電力業界が土木学会に委託したものであり、津波評価部会は電力関係の人々が幹事を務めていた……。

本書は、書名に「対策を邪魔した男たち」とあるように、科学者の警告が政官界や産業界、メディア界、あるいは学界自身の事情でないがしろにされていく様子を、そこに介在した人々を実名で登場させて描きだしている。その一面だけを切りだせば過激な書である。

報道の常識で言えば、「邪魔した男」を実名付きで指弾するのなら、その人たちの反論も載せるべきだろう。ただ、「邪魔」をめぐる本書の記述は、会議の議事録や裁判資料、福島第一原発事故の各種事故調の報告書などですでに公開されているものが多い。著者は、これら既存の証拠物件を自身の実体験とつなげることで、「邪魔」の全体像を浮かびあがらせたのだ。そのリアリティを裏打ちするためには、実名が欠かせなかったのかもしれない。

さて、「邪魔」は2002年の「長期評価」に対してだけではなかった。2011年の震災直前にもあったのだ。もしそれがなかったなら、と思うと心が痛い。次回も本書を読む。
(執筆撮影・尾関章)
=2023年5月19日公開、同月24日更新、通算678回
■引用はことわりがない限り、冒頭に掲げた書物からのものです。
■本文の時制や人物の年齢、肩書などは公開時点のものとします。
■公開後の更新は最小限にとどめます。

9 Replies to “3・11大津波、科学者の憤怒”

  1. 尾関さん、

    今回の本には、いろいろ考えさせられました。特に著者、島崎邦彦さんのこと。「気骨があるが温厚な科学者」である島崎邦彦さんが過激な書名を掲げて憤っている。何に憤っているのでしょうか?

    『大津波の対策を邪魔した男たち』に憤っている? 果たしてそうでしょうか。島崎邦彦さんが『男たち』ひとりひとりに私怨を抱いていて、それを晴らすために本を書いたとは思えません。例えば内閣府参事官補佐(地震・火山対策担当)の斎藤誠という人との Eメールのやりとりが出てきますが、斎藤誠参事官補佐には 布村明彦参事官という上司がいて、富田浩之主査をはじめ何人もの部下がいて、そのまわりを巨大で強力なぼんやりした雲が覆っている。そんななかのひとりひとりに憤ってもどうにもなりません。

    自分たちの思うようにいかなかったことに憤っている? そんなことでもないでしょう。役人や政治家が科学者の言うことを聞かないというのは古い時代からの永遠のテーマだし、御用学者たちが束になって科学者の言うことを封じてしまうのも見飽きた風景です。科学者の思うようになる社会は、歴史上あまりありません。

    まったくの想像ですが、島崎邦彦さんが憤っているのは、ぼんやしした雲のような Bureaucracy ではないでしょうか? 官僚主義、官僚制、官僚制度。。。 官僚という言葉に惑わされてしまうけれど、官僚だけでなく、政治家や科学者や、そして企業にもはびこっている Bureaucracy。島崎邦彦さんがぶつかって行ってもどうにもならない Bureaucracy に憤っているのではないでしょうか。

    ソ連が崩壊した後、崩壊の原因は Bureaucracy だったとたびたび指摘されたけれど、古代エジプト、秦や漢の頃からの中国から、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのアメリカに至るまで、人類はずっと Bureaucracy に悩まされ続けてきました。

    現在、ヨーロッパ大陸の国々では「Bureaucracy にどう対峙していくか」とか「Bureaucracy の論理ややり方を逆手にとってどう Bureaucracy と戦っていくか」というようなことを、高校の哲学の授業や大学の基礎コースの中で教えています。それなのに、今の日本人のなかには Bureaucracy についての知識がなく、Bureaucracy と戦う知恵もありません。島崎邦彦さんにも、そういったものがない。Bureaucracy は悪辣ですから、島崎邦彦さんがどんなに奮闘したところで、戦いになりません。

    Bureaucracy を前にして、日本人のおおかたの人はナイーブですから、文句を言ったとしてもそれで終わってしまいます。Bureaucracy は国を滅ぼします。慣れてしまってはいけない。

    『大津波の対策を邪魔した男たち』どころではない『日本国を滅ぼした男たち』なんていう本が出てくる前に、「現在の日本のBureaucracy と、どう戦っていくか」ということを、真剣に考えなければならないと思います。でも、そんなことを思っても、なにも変わりません。

    規則にないことはやらない。上司が言ったことは絶対で間違いを指摘することすらできない。不正に簡単に手を染める。文書が何より大切になり、文書に書かれていないことはやらない。文書は大量になり、文書の中身は精査されず、文章がうまければ内容はどうでもよくなる。専門性が高まり、自分の担当以外のことはわかろうともしない。他の担当のことに興味を持つことは、いけないこととされる。職務遂行だけが目的なので、予期できないことに対応できない。要するに考えない組織を覆うのが Bureaucracy です。中央官庁から地方の役場や交番まで Bureaucracy が覆っている社会は住みにくい。理不尽なことが多いのはあたりまえですね。

    島崎邦彦さんが憤っているのは Bureaucracy なのだ。そう思えば、合点がいく。間違った理解なのでしょうが、私にはそう思えました。

  2. 38さん
    《島崎邦彦さんが憤っているのは Bureaucracy なのだ》
    私もそうだと思います。
    原子力ムラと官僚機構、この二つが結びついて科学者たちをないがしろにしている――読んでみて感じるのは、そのことです。

  3. 尾関さん

    東京電力福島第1原発の1号機に初めてカメラが入りましたね。日本原子力学会廃炉検討委員会で委員長を務め、原発の設計に詳しい宮野廣氏を含めた4氏が内部の様子を読み解く番組がNHKで放送されました。
    4月のことですが、その時の印象を。

    ・そもそも事故後の内部の様子を確認するのに12年もかかる原子炉をなぜ稼働してきたのか?
    ・1号機はGE製。冷却水を川に頼る原子炉を津波のありうる立地に設けるにあたり、十分な利害得失の検討はあったのか?
    ・溶け落ちた核燃料の熱によるペデスタル(原子炉の基礎部分)の損傷がひどかった。
    本震同等の余震が続いた場合、原子炉全体の倒壊もあり得たのでは?(他の原発でも耐震性論議が盛んだが、同等の強度の地震が連続した場合を前提とした議論なのか?)
    ・2号機か3号機についても、圧力容器内部の様子を探る論議があったと記憶している。ところがこれがシミュレーションなのだ。事故の状況をシミュレーションに頼るほかない実用技術がほかにあるか?
    ・4号機ではなぜ圧力容器底部の破損が無かったのか?点検中云々の理由もあるが、圧力制御室内の水が沸騰し、水蒸気が逆流して圧力容器底部に水として蓄えられたという。要は設計上想定されていなかった偶然ではないか。

    自動車業界では人体ダミーを利用した事故時の被害状況の検証が盛んに行われている。つまり、事故時の状況を事前に「再現」できるのだ。人命に関わるからだ。

    原発はどうか?ひとたび事故が起これば、人命に加え、広範な地域で多数の人々を故郷から引き剥がし、荒野にしてしまうような被害をもたらす。
    事故後の状況を把握するためには、10年以上も経って漸くその一部をカメラで確認したり、シミュレーションで想定するほかないのだ。事故時の状況を「事前に再現」できない科学技術は実用化しないに限る。まして、非常用発電機を敷地の一番低い場所に設置するというあり得ない判断には唖然とするほかない。

    1. 虫さん
      《事故時の状況を「事前に再現」できない科学技術は実用化しないに限る》
      なるほど。
      ご見識に敬意を表します。
      テクノロジーは20世紀後半以降、極微の世界に入り込みました。
      でも原発は、燃料棒部分など原子核物理の領域を除くと私たちの身の丈と変わらない世界にありますので、古典物理によって操作されています。
      過酷事故を想像しようと思えば、実寸大の装置で再現できたようにも思います。
      想像力がなかったのではなく、想像を避けていたのかもしれませんね。

  4. 尾関さん

    核燃料を除いた原子炉の耐震性ならば、実際に水平力を加えて確かめることは出来るかも知れません。
    私が事前の再現と書いた時にイメージしていたのは、福島で起きたメルトダウン、或いはメルトスルー事故の事前再現です。

    自動車業界に限らず、医薬品の世界でも長いプロセスを経て安全性を確認して初めて使用します(治験は効果の確認だけでなく、安全性の人体実験でもありますから)。
    事故の「事前再現」を安全性確認の基本的条件とするならば、原発は原理的に存在し得ないはずです。
    事前の事故実験がそのまま過酷事故になってしまいますからね。そんな意味で書きました(返信コメント無用です)。

    1. 虫さん
      私が考えているのは、以下のようなことです――。
      炉心溶融を起こした原子炉内で起こる現象の大半は、古典物理学の領域にあります。
      事故後、炉内を高温にする熱源は、燃料デブリなどで原子核が崩壊することによる崩壊熱(原子核物理学の領域)ですが、その熱が及ぼす影響は古典物理学に支配されている。
      だから、崩壊熱に代わる熱源を用意してやれば、炉心溶融炉の内部がどう変わっていくかを、ある程度、実験で再現できるのではないか?
      素人考えで、そんなことを思ったわけです。
      (もし、こういう実験が可能なら、それは事故が起こる前でもできたはずです)
      実際は、そんな代替熱源はない、と一蹴されてしまうかもしれませんが……。

      ただ、原発とは原子核物理学の小装置に古典物理学の大装置を継ぎ合わせたもの、という認識はもっていたほうがよいように思います。

      1. 尾関さん

        コメントありがとうございました。私の早とちり、加えて、丁度ブログの更新時期でしたのでご迷惑をお掛けしないようにと配慮したつもりでしたが、考えてみれば、ブログ更新直前に長々としたコメントをお送りした記憶がないでもない、苦笑。

        さて:
        「原発とは原子核物理学の小装置に古典物理学の大装置を継ぎ合わせたもの、という認識はもっていたほうがよい(尾関さん)」
         
        本当にそうですね。火力発電と原発とを比べれば、蒸気発生の熱源が「石炭」か「核燃料」かの違いしかないように見える。「原子力の平和利用」が謳われた頃も新熱源の利用程度の認識しかなく、放射線漏洩
        のために何重かの仕組みを(古典物理学の)器に設ければ安全性は確保できる、と考えられたのかも知れません。

        位相の異なる科学技術の継ぎ合わせという認識が浅く、その継ぎ合わせ部分の設計を如何に慎重に行わなければいけないか、或いは、場合によっては断念すべきとの判断も必要だったのかも知れません。
        とにかく、福島の原発事故が事実として厳然とありますからね。

        キリストのこんな言葉を思い出しました。
        「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる」

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